七度探して人を疑え

対面関係において、ことわざを聞く機会がそう多いわけじゃない。一対多という、例えていうなら先生と生徒のような関係で、教室だとか体育館だとかでたまに聞いたことがあったっけという具合である。ことわざには、話のネタに困った先生や上司の好物、という側面があるかもしれない。


「七度探して人を疑え」ということわざは、初めて聞いた。なるほど、他人を疑う前にやることがある。それは尽きることがないほどに大きい。そもそも他人を疑ってはいけない、という響きにも感じられる。


探し物が見当たらないことがある。そういうとき、真っ先に自分以外のだれかが別の場所に移動させたことを疑ってしまいがちだ。そうした場面における答えとして僕が最もよく出合うのは、「どこへもいっていない」である。周りのものに隠れて、単に見えていないだけだった、というパターンが多い。


そういう場合、探し物が見えにくくなる程度に周りの状況が変化していることはよくある。探し物の周囲に物が増えたとか、探し物の周囲の物が動いたといった変化があることが多い。そうした「ゆらぎ」がある。


おのれが最後に見た景色を、最新の状況に当てはめようとしてもすでに相違が生じていることが多い。この相違を受け入れるあそびがないときほど、他人を疑いやすいのかもしれない。ひとつひとつの細胞がすきまなくぎゅうぎゅうに詰め込まれている状態よりも、ある程度の間隔が保たれている状態がのぞましい。あそびがないほどに、周囲からもたらされる影響が増えて、ゆらぎが大きくなるのではないか。


他人を疑う前に出来る限りのことを尽くす余裕のなさが、「疑う」という悪事を生む。疑って違ったらゴメンナサイでいいのです、とあえてしない。警察じゃないんだから。


余裕がないときでも、まずはおのれに不確かなことがないかを全力を尽くして調べ上げることができるほど、僕に器量はない。だからこそ、じゅうぶんなあそびをもうけることに努める環境づくり、ハード面における工夫によっておのれの器の小ささのフォローが可能になるのではないか。


よりあって力を合わせて生きることが、小さきものの持つ力でもある。そのよりあいの隙間のなさこそが、お互いに対して簡単に大きな影響をもたらすということなのだ。こういうのを諸刃の剣とでもいうのだろうか。


あるものごとに別の側面を見いだして、提示してみせるといったことが先生だとか上司だとかいった立場に求められがちなのかもしれない。ことわざのひとつひとつは、そうした発明の成果物ともいえそうだ。