巨大な耳が空を飛ぶ

耳がでかい生き物がいたとする。


耳とは音を感じる器官である。音をおもな媒介に伝えられる「人の話」をピックアップするツールでもある。「人の話」を構成する成分の多くが実は音ではなく話し手の表情である……などという仮説が脳内をよぎるがここでは愛をもってフェーダーを切らせていただく。


そう、耳のでかい生き物の話だ。


そうした、空気を振動させるかたちに宿された情報を拾い集める器官がでかい生き物というのは、それによって生き残ってきた種、あるいは個体なのだといえる。音による情報をよく拾うことによっておのれの行動指針を決めたり、もっと刹那的かつシンプルに反応・反射したりすることによっておのれを確立してきたものなのだ。


いや、しかし、待てよ……


耳がでかいからといって、よく音による情報を拾える存在とも限らない。ひょっとしたら、音を拾いかき集めるチカラが弱いから、大きく発達させることでその質量や面積あたりの仕事量の小ささをカバーしているのかもしれない。


そもそも、でかい耳は音の情報をよく拾えるのだろうか。その形も重要で、外に向いたパラボラアンテナのような形をしていたら、比較的広めの方位に対して感度があることが想像されるが、だるんと垂れ下がるような形をしたそれだったらどうだろう。大きいのに鋭い感度を持たない、鋭利な反応を示さないそれだとしたら、愛嬌すら感じる。そう、確かに大きいという要素は、鋭く動くことに利さないだろう。機敏さを求められたとしたら、そのものはきっと大きく発達させるという戦略を選ばない。


大きく、鈍そうに発達することで、愛嬌を周囲の者に感じさせる。愛情を抱かせて、力を貸してもらったり尽くしてもらったりすることで生き残るという戦略もあるかもしれない。


鈍くてあまり何もできなそうなそれが、ときおり驚きの能力を見せたとしたら、周囲の者は「いざというときにはやるのね!」という目でその者を見るようになり、その者はいわば一目おかれる状態となる。「ギャップ」を感じさせる要素が鑑賞者を惹きつけるのだとしたら、そんな光景を創作物に盛り込むのもいいだろう。


あまり鋭いとはいえない僕の目でさえ、何かしらの対比に向けられる感性がある。


目がでかければたくさんのものが見られるかといえば、きっとそうでもないだろう。眼球を動かすのに関わる筋肉は、人体の中でも最も速く動くという話を聞いたことがあるが本当だろうか。



お読みいただき、ありがとうございました。