遠心のコーヒーカップ

考えて、その場だけの答えが出たような気になって、そのままで、また考えて……問答のコーヒーカップを延々と回し続ける。


じぶんのやりたいことってなんだろう?


お金はあったほうがいいけれど、最低限あればいい。それ以上を望むために、現状を変えるべきか?  とも思う。


僕は、じぶんの力をじゅうぶんに発揮できているだろうか。持ち腐っていたら、勿体無い。


編集というのが、持ち腐りをせずに、いかに本来のものを伝えるかという概念だろうか。


書き上げられた原稿を、どういうかたちでどのように見せ、伝え、届けるのか……あるいは、どのような人、場所、ものやコトのどんな部分を拾い上げ、吸い出し、収集するか……というところから、編集というおこないはすでにはじまっている。


もともとある存在にそなわっている魅力を引き出し、伝えることができたらいい。それ以前に、そのもともとの魅力を周囲に伝えることを阻むようなおこない、くせ、習慣といったものがありやしないか、洗い出しをしたり、自己を見直す観点を持ったりする必要があるかもしれない。対象が、自己でなくてももちろんいい。一緒になにかをやろうとしている身近な人、関わりのある人、同僚、仲間、パートナー……


お金を稼ぐことを目指した時点で、どうも僕はつまらなくなってしまう。やれる限りのこともしないうちから言えたことではないのは承知の上だけれど、たとえば、認められることを至上目的としてどこかへこぎ出そうとすることも、やはりつまらない。おのれがやりたくて、たのしくてしょうがない、おもしろい、追求がとまらない、やめられない、じぶんに、負けたくない……そういうことの先に、結果として、お金があったり、他者から価値を認められることがあるのが、自然な順序というものなのではないかと思う。


はなから価値を認められることを目指してしまうと、なんというか、行きたい方向があるのに、その周辺に付随する副次的なもので指針がぶれてしまうように思う。ズレを感じる。


ズレを気持ち悪く思うのは、僕が生まれ持って備えた感性なのだと、半ばあきらめていることでもある。納得して受け入れていることでもあって、それを尊重した延長上に、無理にお金だとか価値を認められることだとかをとらえようとすると、なんだか、おれが行きたいのはそっちじゃない!  もっとあっちの景色の先に何があるのか知りたいのに!  という気持ちになるのである。


気持ちが空回りして、飲みかけたコーヒーカップをくるくる回し、朝を迎えては暮らしをつづける。


お読みいただき、ありがとうございました。