踊れば楽し、空虚なダンス。

僕は、楽器を演奏したり、歌ったりします。作曲や作詞もします。


いいなと思える曲を作れたときは、例外なく、自分がそんな曲をつくるなどとは思っていなかったときです。ようし、こういう曲を書くぞ!  と、アテをつけて曲を書くことが、僕にはできないのです。その結果を目指した時点で、つまらなくなってしまうのです。それも、尋常ではないつまらなさです。ですので、その瞬間にそれ以上取り組むことはできなくなります。


ある程度アテをつけて舟を漕ぎ出した場合でも、具体的なアイディアが思いのほかおもしろくさせてくれる場合があります。いつも自分が思いしないような曲を書きたいと思っていますが、やはり自由自在に思い通りの曲をつくれるようになりはしないだろうか、という幻想をいつも抱いているので、アテをつけて漕ぎ出した舟をきちんと狙った通りの目的地に送り届けるようなやり方での作曲も、ハナからあきらめているわけではないのです。


ですので、はじまりの時点でアテをつけて出航した場合でも、その舟がどこかへたどり着く可能性のすべてをあきらめることはしないので、やはりいっしょうけんめい、その曲をいかに導いてやろうか考え続けるわけです。


そうして考えているうちに浮かんできた具体的なアイディアが、アテをつけたつまらなさを覆すこともあるのです。そうして、最初につけたアテ先とはまるで違うところに舟をリーチさせることがかなえば、それはもはや当初の僕が思いもしない曲になっているわけです。


これはいい!  と思える曲は、未知の行き先のようなものです。あるいは、この世に存在しない行き先が、新たに生まれるようなものです。


ハワイに行こうと思って、ハワイに行く楽しみも、まあ、あるといえばあるでしょう。実際に行ってみたら全然思ったのと違ったということもあるでしょうし、行ったことのある場所だったとしても、最後に行ったときとは変化しているでしょう。だから、そうやって行き先を狙いすました行程の楽しさも否定しません。


しかし、この世に存在しない場所を、行き先を、目的そのものを生み出せたときの楽しみときたら、神がかっています。つまらなさなどというものが入り込む余地もありません。


で、やはり、今はない場所に行くにはどうしたらいいだろうかと、考える方法もないけれど考え、さまよい、必要か不要かもわからないことをなんでもやってみるという不断の努力をしているところに、そうした神がかった創造の奇跡がふわっと舞い降りるのではないかと思うのです。


とにかく、やらないところに結果はない。つかみ取れるかわからないけれど手を伸ばし、手繰り寄せる努力をやめない。努力うんぬん以前に、その踊りを楽しんでいる。楽しいから、踊っている。そうした空回りのモーションのもとに、結果は向こうからやってくるのではないでしょうか。



お読みいただき、ありがとうございました。