美しい家具

焚き火をする。服に匂いがつく。だから、匂いがついたり、すすがついたり、汚れたりしても構わない服をあらかじめ用意して、すっぽり服の上からかぶって焚き火をする。煮炊きなどもする。


履き慣れた靴がある。着慣れた服がある。どちらも、履き慣れすぎて、着慣れすぎて、つかれている。靴は底がすり減って、靴底自体が剥がれかかっている。中敷きも擦り切れて下の素材が見えている。服も、色落ちしきっていてよれよれで、頻繁にこすれる袖の部分は擦り切れてぼろぼろだ。そんなような服を着て、そんなような靴をつっかけて望めば、どんなどろんこ作業も怖くない。だが、肝心の仕事がない。ゆえに、すりきれた靴とよれよれの服に活躍の機会はない。捨てればいいのだが、急ぎ捨てるほどの理由もない。


過酷な条件、厳しい場所に行く時、何を身にまとっていけばいいのだろう。あまりに見た目がみすぼらしすぎるのも、人の目に触れる機会があると気がひける。すべての人が同じように過酷な条件に望んでいて、ダメになっても良いみすぼらしい服を同様に身につけている、そんな個人の集まりの中のみにしばらく居続けるので、みすぼらしいのはお互い様である……という状況ならば、まだよい。けれど、さまざまな境遇のさまざまな人が行き交う場所をおのれも通過しなければならない、という場合は、通り抜けるまでのそのあいだ、おのれのみすぼらしさが気になり、堪えかねるかもしれない。


みすぼらしさを内側に、すっぽり綺麗な格好をかぶればよいのか。いつでもささっと脱いできれいに仕舞っておけるような、外側だけのものを。異質な周囲と対峙するための仮面みたいなものである。


変な柄のTシャツとか、たんすの中にキープしているということがありはしないか。高校生なんぞをしていた時代に、文化祭のためにクラス単位で製作したTシャツなんかを大人になっても持っていやしないか。僕はそのほとんどを捨ててしまった。それでも、いらない服を捻出しようと思えばまだまだあるだろう。


何か、そうした要らない服たちが活躍する機会に、僕はそれほど恵まれているわけではない。だから、基本的に彼らはたんすの中で眠ることのみをライフワークにしている。とても大事にされつつ、忘れられている。大事にすることと無関心のままでいることは、紙一重かもしれない。


いつか何かに使えるかもしれない、というものを溜め込むのが僕の性格だ。実際、そういったものが役に立つことは稀である。稀であるが、無ではない。そこが味噌である。いや、味噌は毎日のように使うから、実際は味噌とは違う。溜め込むほどに美味しくなる、秘伝のタレみたいなものか。毎日使って、毎日継ぎ足して、というものでもないから、それもやはり違うか。


宝の持ち腐れというが、腐らないものだけを僕は持ち続けるようにしている。というか、宝と呼ばれるもののほとんどは、腐らない。腐らないことが、宝の条件だと言い換えてもいいかもしれない。


汚れてもナニしてもかまわないという変な柄のTシャツは、捨て駒という役割を期待されて仕舞われているとしたら、宝とはちょっと違うだろう。腐らないものというジャンルは、案外広い。


おのれの頭の中をお宝だけで満たしておくことというのはなかなか難しくて、日々生々しいものたちの出し入れで忙しい。たまに高圧洗浄機みたいなものをかけるべきかもしれないが、堆積物を取り除いたところにすぐさま新しいものがへばりつくのが目に見えている。


使い込まれて美しい家具、みたいな人間になりたい。


お読みいただき、ありがとうございました。