70億人の先導者

言われたことを鵜呑みにするのでなく、じぶんの頭で考える。そして、納得したり、あるいは違和感を覚え、知識や情報を集めたり、学んだりしていく。


ヒトの行動は、水の流れによって川ができるみたいに最適化されていく。仕事を覚えていくこともそれに似ている。無駄が省かれ、必要なことが最適な順序で行えるように習熟していく。


何かの判断のために、思考を要するかもしれない。そこに、思考の道すじが出来上がる。似たような状況があとでやってきた場合、再びそこを通って、似たような判断に至りがちかもしれない。一度通った道すじは、1度目より2度目のほうが通りやすいだろう。3度目ともなれば、もっと少ない労力で通れるようになるだろう。そうやって次第に、思考を省いて判断するようになりがちだ。


じぶんで考えてじぶんで判断し何かを実行した場合、その責任をおのれが負うことになる。反対に、他人が考えて判断したことに倣っただけの場合、「考えたのはわたしじゃないから」などという言い訳がまかり通って、責任追及の矛先がおのれに向くことを免れることもあるかもしれない。


ただ、極端な例だけれど、他人の考えとそれによる指示に従ったのだとしても、人を殺せば実行者がその罪を免れることはない。



花が咲くように、考えもなしにそのようになる、ただの反応の結果が、よい状況や好ましい状況を演出することもあるかもしれない。


ヒトは、多様であることによって、種として生き残れる可能性を高める戦略をとっているのだとする説を聞いたことがある。


他人とは違う方向に考えて行動する性格だとか、他人とはなるべく違うところに目をつけて違う発見を得ようとする性格だとか、おのれとは違う性格のものと手を取り合ったりフォローしあったりしようとする性格だとか、そのいずれもが、そうやって多様な個体を含んだ種でいることによって、より環境の変化に対応でき、そうした変化があっても誰かしらが生き残って種として生き残れる可能性を高める戦略なのかもしれない。


個体どうしが「同じじゃない」ことを眺めあうことで、結果として種の生き残り戦略になっているかどうかをチェックになっているのかもしれない。


他人を見て「あいつと同じだ。これはまずい。わたしは、わたしらしく、わたし独自の生き方をせねば。」なんて思うことがあるのだとしたら、それは、種の生き残り戦略に貢献する性質なのかもしれない。


多様性のある種を志向することで、生き残れる可能性が高くなる。この論理は借りてきたものであって、僕自身がおのれで考えて導き出したものではない。ただ、確かに色々な人間の行動を説明できる論理であるなぁと思う。


おのれのおこないの結果を、おのれが引き受けることになる。ならば、おのれで考え、導き出した判断のとおりにした方がおもしろい。そうでなければ、失敗から何も学べないし、成功もおのれのものになってはくれない。そのことのおもしろさに気づいた人間は、つよい。


お読みいただき、ありがとうございました。