W.C.の奇襲

先の4月1日、僕は職場へ出て行って仕事をしていました。新元号の発表があるとのことで、そわそわする気持ちを表に出さないようにしつつも、時間を気にしていました。インターネットによる中継をスマートフォンに映し出して傍に置いておき、まだかまだかと発表を待ちました。定刻らしい時間をまわっても発表される気配がなかったので、これはまだしばらくじらされるかもしれないと思い、思い切ってトイレに立ったその間に発表が行われました。その悔しさたるや、一生の思い出になるでしょう。


今回の新元号を迎える、おとといや昨日などは特に、すごいお祭りさわぎだったように思います。大晦日みたいだと妻が僕に話していましたが、ほんとうに雰囲気がそっくりだと思いました。よくもこんなに人が集まるものだなと、さまざまな地域から届く映像や写真を中心としたニュースを知って思いました。


昨日は僕は、家族・親族で集って遊んだり食事をしたりして過ごしました。テレビを見つめてまとまった時間を過ごしたのは、久しぶりでした。放送されていたのは、やはり平成時代の振り返りをテーマにした番組でした。集中するでもなく、お互いに嘆いたりあいづちを打ったりしながら、ゆっくりとした時間を過ごしました。


天皇という存在について、これまでで一番考えたり思ったりしながら過ごしたここ数日でした。とはいえ、僕に特別な考えがあるわけではありません。「退位礼正殿の儀」の映像と音声を見て、儀式の空間に響く靴音の余韻から、その厳かさをひしひしと感じていました。儀式の場を去るそのときの、平成天皇の最後の一礼が印象的でした。時計を見たら、儀式にかかった時間は15分間程度だったように思います。


人生の主人公はおのれである、というのが僕の感覚の基本なのですが、皇太子として生まれていたら、そのような感覚は築かれるでしょうか。皇太子は、3歳になったら肉親と会えるのは週一回になるという話を、僕はじぶんの母親から聞きました。一緒にその話を聞いていた妻と僕は顔を見合わて、僕らの息子のことを思いました。彼はこの5月2日で誕生日を迎え、満3歳となります。


平凡に生まれた僕は、おのれの選んだ生き方によって特別な存在になることを目指さねばならない、という幻想を持っているのかもしれません。一人ひとりが生まれながらにして特別だと考えることもできるかもしれませんが、一方でそれを許さない僕がいます。


選ぶことのできる生き方の幅も、まっとうすべきとされる生き方の幅も両方あって、その重なりあうところで僕は生きているのでしょう。


お読みいただき、ありがとうございました。