球体の往来

ふつうに生きている人の話だって、おもしろい。いやむしろ、ふつうに生きている人の話のほうが、ふつうの人にとって有益だろう。どうしてか僕は、ふつうで平凡な人間のくせに、稀有な人の話をありがたがる傾向があるようだ。レアケースから平凡な人間が学ぶことがないとはいえないけれど、実用的かと言われれば決してそうとはいえない。稀有な人間の話は、平凡な僕にとってはどちらかといえばノンフィクションよりもおとぎ話に近い。非現実を見て楽しむことを目的に、僕はそうしたものを読んだり観たりしようとするのかもしれない。


僕は、インタビューされたことなんてほとんどない。過去にロック誌主催のオーディションで入賞したときに一度あったかしら、という程度だ。だから、インタビューされた経験から学んだことよりは、むしろインタビューする側の経験から学んだことのほうが多い。今の僕は、仕事の立場上、取材で人の話を聞く機会が多からず少なからず、ある。


人の話を聞いて、何が浮かび上がってくるかはやってみなければわからない。決められた味わいかた・楽しみかたを提供されて、その通りに消化するのとは違う楽しさがある。誘導尋問で「あんたが犯人だ」と決めつけるようなことは、インタビューにおいて、あってはならない。


顔を公にさらし出して言うことがある。一方で、顔をそむけて、闇に向かって吐き捨てる言葉がある。両者はどうも違うらしい。インタビューは、独り言とは違う。語り手が発した言葉を受け取る人がいる。キャッチボールみたいなもので、語り手は聞き手のグラブが届き、球を受けてもらえそうな範囲をきちんと狙ってボールを投げる必要がある。語り手が大暴投したら、「ちょっと参考資料を調べてきます!」などと飛び出して行ってしまう聞き手もあるかもしれない。逆に、あらかじめそうやっておのれが球を受けられる範囲を極力広げておくことが聞き手の作法であるという側面があることも、認めざるを得ないだろう。


語り手は「あることないこと」のうち、聞き手に向けてしゃべるとなれば「あること」しか語れない。つかむことのできる球だけを、語り手は投げることができる。実体のない球は、つかめないし、投げることもできない。たとえば、勢いあまって言ってしまうような誹謗中傷や、確固たる理由も述べられないような否定は、闇に身を紛らすだろう。聞き手が悪意を持って煽るというようなことでもない限り、光が当てられている部分に向かって滲み出てくる言葉というものがある。当てる光がまぶしすぎても、幽かすぎてもいけない。


聞きあうことを、もっと気軽にしても良いのかもしれない。あらたまって聞くのは気恥ずかしいという仲でこそ、「ごっこ遊び」という設定が効くようにも思う。仕事として責任を負ったり、なんらかのプレッシャーを感じながらやらざるを得ないときとは、また違ったキャッチボールになるだろう。


思えば幼少期にキャッチボールをよくやった。あんなにシンプルで楽しい遊びはないだろう。久しぶりに、やってみたくなってきた。からだがウズウズしている。


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