「わかりやすく」という不親切

たくさんの人が、テレビを観ることを娯楽としていた。それより前は、きっと、ラジオを聴くことを多くの人たちが娯楽としていた。さらにそれより前は、文字を読むことがそれに相当していたかもしれない。


映像、音、文字と、いろんなかたちを持った情報の紐付けが、どんどんなされていった。際限なく情報が付加され、詰め込まれることで、逆に受け取り方や想像の幅を限定してしまうことがある。


最小限の提示から、最大限のイマジネーションが生まれるということが、人間の頭の中では起こるのに。そこに、「わかりやすく」などというヘンな親切は要らない。お節介ですらある。


読んでも、描かれている情景がはっきりしない小説に出会うことがある。それを読んだあとも、すっきりしない。胸の中やら頭の中やらに、もやもやが立ち込めているような気分になることがある。これはなんだ?  もやもやを晴らしたい、もっとわかりたい、という欲求が、次なる行動の原動力となる。


わかりやすく、という不親切がもたらす表現が「あなたはお茶の間に座って、お茶をすすりながら画面の前にいるだけでいいですからね。……なんだったら、一生そのままで……」などと言っている、そんな気がするのは僕の過剰な受け取りかたかもしれない。けれど、そんな受け取りかたをされる可能性があることを、その表現の発信者は想像しただろうか? 


表現者とユーザーのあいだの、想像力の欠落の無限連鎖を思う。想像のあるところに、次なる想像が生まれる。最初の想像がもたらされたのは、いつ、どこで? その神秘性が気になって、僕はまた行動を起こすだろう。


お読みいただき、ありがとうございました。