しとしとと降る雨のように


子どもの頃、お年玉をもらうとよく貯金した。そのことをほめられたこともあった。大人になったいま、じぶんの子どもにまとまったお金をやって、それを貯金されたら僕はどう思うだろうか。銀行に預ければ利息でお金が増える、という時代は僕の子ども時代の後半にさしかかる頃にはとうに終わりを迎えていた。つまり、考えなしに預けても増えない。


お金を増やすために知恵をつかうことをよしとするかどうかは、いろいろでいいと思う。ただ、どうせお金をつかって成功したり失敗したりするなら、子どものうちのほうがいいよというのはなんとなくわかる理屈だ。


お金でお金を増やすことそのものを目的とするのは、おかしな話だ。お金が増えることにともなって得られる快感を目的とするのならば、それもありだろうか。お金を増やすとか貯めるとかいったおこないは、使途が定まってはじめてイキてくる。大人がかつて子どもたちに言った「貯金しなさい」「貯金はえらい」は、使途が定まりもしないうちに浪費しないようにとの警句なのかもしれないが、お金のつかい方を学ばないうちに子どもが大人になってしまった場合のほうが、結果的に浪費が増えるのかもしれない。「使途を考えなさい。それで、行動しなさい。その上で、有効な選択肢の中に貯金があるというのならばそれもいいでしょう」今の大人として僕が子どもに言ってやれるのはこれだ。僕の子どもはまだ3歳だけれど……


使途を考えて、行動した人のもとにお金はまわる。一時的に集まることはあっても、その使途の消化によってまた他へまわされる。使途を考えることを放棄して貯金した人のお金は、結局使途を考えてお金をつかおうとする人のもとにまわる。銀行がそのように運用するからだ。考えて、お金をつかおうとする人がまた考えて行動する、といったサイクルができる。考えない人は、ますます考えなくなるという「裏面」が、このサイクルにはある。それは、ひと握りの人が牛耳りやすい社会になることにつながる。つまり、「考えなしに貯金をすると、牛耳られるわよ!」ということである。


牛耳られるのも、個人の自由では? などと言われるのはおもしろくない。なので、あんまりそこのあたりの自由の存在については、積極的に触れないでおくことにする。何を隠そう、他でもないこの僕が、牛耳られのぬるま湯の中にいるからだ。子どもに悟す前に、じぶんのお金のつかい道をよく考えなければならない。その原資は手元にないけれど。からだを資本に、これからつくるのだ。僕もまだまだ若いものだと思う。


老け込むにはまだ早い、という程度である。お読みいただき、ありがとうございました。