Are We おひとりさま?

「おひとりさま」が、得意である。僕が持つ楽しみや愉悦の大部分が、ひとりでやるもので占められている。友達がいないという自認はないが、友達が多いというほどの自認もない。


おひとりさまを想定して供給されているサービスがけっこうあるみたいだ。焼肉とか、カラオケとかが思い浮かぶ。あまり近年まで、おひとりさまでの利用を想定されてこなかった分野のサービスである。でも、近年の時代背景を参照して考えてみれば、そうした分野のサービスがおひとりさまでの利用に対応して発展することは、ごく自然な展開に思える。太いパイプが一斉に国中の要求を満たすようなことが、なくなってしまったからだ。太いパイプの設置が、そもそも適わない。社会が、そういう形になったからか。そのあたりのことをちゃんと語るためには、僕は不勉強極まりない。今後の課題として、その解決を肝に銘じたい。


誰かと一緒にやることが前提にあることって、他に何かないかしらと考える。


・パーティ

・名刺交換

・クラウドファウンディング

・結婚


……なんか変なブレインストーミングになってしまった。収集がつかないからやめよう。


「わたし to わたし」は成立するか? という、大きなテーマに行き当たる。このことと僕の生き方は、根深い関係にある。僕は作曲や演奏といった活動をしているが、たとえばラブソングを作って歌う際、愛を伝える対象を「自分」として良いだろうか、といったことである。これについて僕は、是とする姿勢でいる。自分を介することでしか僕はこの世に存在できないし、世界を認知することもできないからだ。ここでいう「自分」とは、自己の外側の世界に対峙するための「仮面」のようなものを指しているのかもしれない。その器としての「仮面」に愛着を抱き、感謝を伝えんとすることが行動の動機となることは、そう不自然なことでもないと思う。論理が破綻しているかもしれないが、大目に見ていただきたい(そもそも問い自体が成立していない……かもしれない)。


どこまでが「自分」かという点について幅を持った解釈を適用すると、世界が広がって楽しいし、自分や他者に寛容になれる……と、僕は思っている。「おひとりさま」を楽しむことは、ある意味、世界に迎合し、楽しみ、受け入れ、ひとつになることともいえるんじゃないだろうか。個人主義は、全体主義の裏返しかもしれない。


お読みいただき、ありがとうございました。