起床転尻

格闘技のテレビ放送なんかを、むかし実家でよく観た。大晦日に「K-1」を放送するのが恒例だった時期が僕の10代の頃にあった。ボブ・サップを日本で有名にしたのが、その放送だった。夢中になって観たものだ。


ピークは、下降のはじまりでもある。どんな最強の格闘技の選手も、かならずその強さは衰える。まだまだ強くなるとき、そこはまだピークではない。


僕は楽器の演奏や歌唱をする。今日はどうしたんだろう、過去最高に調子が良い、ひょっとしたら天才かもしれない、などと思う日がたまにある。この調子でいけば、明日もあさっても天才でいられるかもしれない、おれはなにかをつかんだのだ!  などと思うことがあるが、翌日も同じようにいくことは絶対にない。(少なくとも、これまでにはなかった)


本番があったら、そのときにピークが来るように体調やコンディションを調整する。だから、どんなに素晴らしいステージをやったときでも、翌日には天才ではなくなっている。そのことが、本番の予定が決まった瞬間に、同時に決まるようなものである。


最強の格闘技の選手という称号を得ることはすなわち、最強でなくなる事実を同時に手にすることである。生即必死(造語。そんな言葉ある?)、生を手にした者には同時に死が与えられる。分けて考えること自体がおかしいのかもしれない。


細かい「最強」なら、繰り返し経験することができるかもしれない……演奏家が本番のたびに天才になるみたいに。スポーツ選手の試合がひとつ終わると、つぎの試合に向けた人生が始まる。演奏家の本番も、似たようなものである。


非常に激しい運動をともなうスポーツを長く続けるのは難しい。激しさにともなって、身体への負担も大きくなるからだ。それを思うと、たとえばピアニストの寿命は長いほうかもしれない。


どんなものごとにおいても、減るものがないとは言えない。万物は、代償なしには成立しない。起きたら、眠りにつく未来に必ずたどりつく。起床転尻(きしょうてんケツ)である……、失礼しました。


お読みいただき、ありがとうございました。