More? Enough?

まるで何かの義務であるかのように食べ物を口の中に放り込み、荒々しい咀嚼もほどほどに胃の中に送ってしまうことがある。それの行動の原資となるのは、「時間がもったいない」という焦心かもしれない。


「疲れたなぁ」「イライラしているなぁ」と感じていて、行動や思考、向こう見ずに浮かんでくる原始的な思念の類を制するのがおっくうになってしまうことがある。そんなときにもやっぱり、食べることを何かの義務のようにこなしてしまいがちになる。


「食べる」機会は、楽しみにもなるし、誰かと持てばコミュニケーションや対人関係の構築にもなるし、それ自体の潤滑剤にもなる。一人で持った場合は、おのれとの対話の機会にもなるだろう。おのれと会話し、おのれの気持ちと向き合い、省みたりこの先にある眺望にこころをなじませる機会にもなる。そういったチャンスをすべてないがしろにするかのように、「食べる機会」そのものを口に放り込んで荒っぽい咀嚼もほどほどに胃に送って、それこそ「消化」してしまうことが僕にはある。


それは、人間的な習わし、考え方、文化のようなものをないがしろにしまうことに等しい。ケダモノになっているじぶんを、身近な人やおのれに訴えることで助けを求めているのかもしれない。「私は人間らしく〈食べる機会〉を味わうこともままならないほどに余裕がなく、切羽詰まっています、どうか手を差し伸べてやってください……」そんなひとりよがりな声が聞こえてきそうである。解決を他者に頼ろうとする姿勢は甘えと評するのが相応しい、と見ることもできる。救難信号を拾ってくれる誰かがいればまだ良いが、ただ一人の部屋が粗雑な所作で荒れていくだけの場合には目も当てられない。


カロリーを放り込むことで埋まるような穴ならば、それこそ胃に食べものを送りさえすればいい。しかし、ひょっとしたらその穴は、「食べる機会」そのものを味わうことでこそ埋まる穴かもしれない。実際のところ「カロリー」がなんなのかすら僕にはよくわかっておらず、その理解の頼りなさのほうにむしろ自信が持てるくらいだ。よく知りもしないもので何かの穴を埋めようなんて、ここらでひとつ問い直すべき姿勢といっていいかもしれない。


「食べる」は本能であるという側面を全否定はしないけれど、それだけじゃない。それ以外の側面を見過ごすことで、何かあなたの暮らしがうまくいかなくなっていることって、あるんじゃないかしら……そんな問いを、今しがた僕は抱いたところである。本能の先にあるものこそが、自由なのかもしれない。



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