11時を寝て過ごす

「じぶんの年齢を3で割ったのが、いまの人生の時刻」という考えに則っていえば、今の僕はちょうど午前11時をまわったところです。


なるほど、18歳とかそこらでただいま高校を卒業していかん! としている人たちに向かって先生が語れば、「君たちはまだ朝の6時なのだから、これからどうとでもなる」という励ましの意味を伝える行為にもなるわけですね。うがった見方をすれば、たとえ18歳の時点でどんなに順風満帆でいようとも、これからいくらでも転覆したり難破したりといった困難に直面する可能性だってあるよという塩っ辛い言葉でもあるのでしょうけれど。


この「年齢÷3=人生の時刻」説によれば、72歳で0時を迎え、2日目に突入してしまうわけです。「人生ひとまわり」のイメージとしては「還暦(60歳)」の方が強い気もしますが、この「年齢÷3」説によれば72歳なのですね。たとえば90歳だったら2日目の朝6時なわけです。自分が2日目の朝6時を迎えたとき、はたして「よっしゃー、また朝キター!(やったるで〜)」となるのか「もういいわい……(そっとしといて)あぁ、まぶしい」となるのかわかりませんが。


この「年齢÷3」説によれば、ひとりひとりそれぞれの時刻を持ったもの同士が世の中に共生していることになります。なるほど、朝や昼の時刻を持って活動している人たちのことが、夜まっただなかの時刻を持つ人にとって、うるさく、疎ましく思えることもあるのかもしれません。あるいは、おのれの持つ時刻が夜になってしまっているけれどまだまだ活動せんとする人が、野球場のナイター用の照明の力を借りて元気に試合をしているような状況だって考えられます。そのときの「照明」の役割をするのは、「朝や昼の時刻を持っている人たち」かもしれません。


それぞれに持つ時刻が違っても、明るさ・輝度(あるいは暗さ・暗度?)のようなものを持ち寄ってひとつの場をつくることができます。眠りたい人にとっては、明るさや輝度を抑えられない人がずっと近くに居続けることは、ときにあまりありがたいことではないかもしれません。あるいは逆に、明るい時間帯の時刻を持つ人にとっても、暗い時間帯の時刻を持つ人のそばに居続けることは、おのれの明るさを無理にでも抑える必要が頻繁に生じ、しんどいことかもしれません。


10代や20代の時には、11時を寝て過ごすことも多くありました。今ではあまりなくなりましたが、休日の朝食後の二度寝をむさぼっている最中……ということはたまにあります。昼眠って夜活動するというサイクルの人も世の中にはありますし、どのような時刻をどのように過ごすかはそれぞれで良いでしょう。固有の時刻に対してイメージを固定しすぎるのも、危険なことかもしれません。



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