濁状の清

ここ1年と数か月くらいで、僕は日記をつけるようになりました。5年間使えるタイプの日記帳で、同じ日付の5年間ぶんの日記が同一のページ内に並ぶレイアウトになっているものです。


このレイアウトのおかげで、日記を始めて2年目に突入した数か月前から、去年の同じ日付の日記が自然と目に入るようになりました。そう、この「過去の日記、それも1年前の同じ日付の日記が自然と目に入るようになる」というしくみに大きな価値を感じて、僕はおのれにこの日記帳を導入したのです。そのしくみが、やっとこさ真価を発揮しまくり出したのです。


ちょうど1年前の同じ日付、あるいはかなり近い日付の日記を見たところ、すこし気色悪くなるくらいに、じぶんが昨年とほとんど同じ行動をとって、その結果とても似たような気分や感情や感想を抱くことがしばしばあることに気付きました。そのことがおのれの成長のなさにも感じられて、妙に情けない気持ちにもなりました。


もちろん、そのことは何も悪いこととも限りません。省みているだけなのですから。そう、省みること自体は、おおむね良い方に働くと思います。むしろ、省みた内容について「いいぞいいぞ、おれ」とか「うわぁ、成長ねぇなぁ、おれ」とかいった具合に何か感ずるものがある方がきっと、省みた甲斐があるというものでしょう。


そこに、「わたしが気づかなかったわたし」を見いだすことができます。「日記帳」という存在を生じさせたことによって、「日記帳」と「わたし」の対人関係(ここではあえて日記帳を「人」としてしまいましょう)が生まれ、その関係の中に、わたしはわたしを考察する「目」を得たのです。


ところで、わたしは作曲をするのですが、最近ようやく「これが、わたしだよ!」「これこそが、わたしによる作曲だよ!」と自分で思えるような「共通する要素」がなんなのかをひとつ、見出しました。


それは、「濁り」です。「濁り」があることによって、「清さ」が浮かび上がるのです。「濁り」と向き合って、それをそのときのおのれの感じるままに両手ですくいとる。それを曲として形にできたものこそを、わたしはわたしに対して誇ることができると気がついたのです。そうしてできた「誇ることができる曲たち」の間に、「濁り」あるいは「濁りが乗り込んだ結果としての、ある共通した形」が立ち現れたとしても、それを僕は「成長のなさ」とは思わない、ということに気がついたのです。むしろ、それこそがじぶんなのだなぁ、じぶんが誇りに思えることなんだなぁということがわかったのです。


日記帳に書きつけたことから、「過去のじぶんと別の瞬間のじぶんが似た行動をとり、その結果似たような思念が立ち現れることがある」ということを知りました。また、「これまでにじぶんが作った、じぶんがじぶんに誇れる曲」の間にもひとつ「濁り」という共通の要素を見出せることにも気付きました。


前段の日記の話と、後段の作曲の話は、どちらも「わたしがわたしについて気付いたことがある」という点を論じるためにひっぱり出したことなのですが、わかりにくかったらどうか、ごめんなさいませ。



お読みいただき、ありがとうございました。