運ぶ人

頼まれごとをするのは、悪い気はしません。じっさい、ぼくはじぶんの持つ時間の多くを、人からの頼まれごとを実現するために費やしています。仕事としてそれをやることもあるし、無償でやることもあります。


あることが叶うとき、だれかから頼まれておこなう場合と、自主的にやる場合があると思います。たとえば、ミュージシャンが「演奏してほしい」という主催者の頼みごとを引き受けて演奏が実現する場合と、「おれは演奏をやるぞ」と、みずから演奏の実現にむけてことをすすめる場合とがあるように。


この境界は、けっこうあいまいともいえます。たとえば、「演奏してほしい」という主催者の頼みごとの実際は「自主的に演奏の実現に向けてやってみない?」という意味合いを暗に、あるいはあからさまに含んでいる場合があります。


頼まれごとを引き受けるか判断するときに迷ったら、「じぶんからお願いしてでもそれをやりたいか」を考えれば答えが出せるといった旨のコラムを、あるところで読んだことがあります。ぼくは感心して、その話を胸の中の比較的取り出しやすいところに置いていて、しばしば思い出すのです。妻から何か判断に迷う決めごとについて相談されたときにも、その話をしたことがあります。


頼みごとをする人が、「きみがこれをやったらぼくは嬉しいし、これをすることはきみもきっと嬉しいんじゃないかな」というところまで腹におちた上でお願いしてきてくれるという幸せな運びが、実際にあるようです。その限りでないものは、場合によっては引き受けてもいいし、断ってもよいでしょう。


おのれのことをかえりみると、ぼくはもっとほかの人を「利用」してちょうどよいくらいなのかもしれません。じぶんは、幸せを運んでもらってばかりだなと思うのです。もっと、ほかの人のところへも「運ぶ人」になるべきなのでしょう。「きみがそれをしたらぼくは嬉しいし、きみにとってもそれをやることは嬉しいことなんじゃないかな」ということをすすんでさがし、考え、運んでいきたいと思いました。


お読みいただき、ありがとうございました。