盤上の碁石

こどものためにつくられた本って、絵や字がおおきいです。


で、高齢な人のためにつくられるものもやっぱり、絵や字が大きいです。高齢の人が操作することを想定してつくられた機械の類は、ちょっとボタンが大きかったり、その数が少なかったりします。


こどもケータイや、高齢の方向けにつくられたであろう「かんたんケータイ」的なものには、つかう人の特徴に合わせたデザインがなされていることと思います。


こども向けのデザインと、高齢の人向けのデザインとのあいだには、わかりやすさという点で共通性が見出せるかもしれません。


すごく乱雑なことをいいます。


「ジジくさいもの」を好きな人っているのでしょうか?


いえ、たとえば、茶道をやるとか、川柳や俳句をつくるのを好きだとか、将棋や囲碁をさすとかいったことをジジくさいというつもりはまったくありません。ただほかのものよりも多少、おおきな歴史的背景を持ったり、あるいは長い時間の経過に耐えて磨き抜かれたりしているかもしれない、というくらいでしょうか。


いまじぶんで言っておきながら、「ジジくささ」とは何か? という点で、ぼくには大変な迷いがあります。


いまぼくが伝えたいと思っていることの正体はきっと、「年季が入っていることが、良い方向に作用していないもの」のことです。それを欲している人って、きっと高齢の人の中にも若い人の中にも探し出すことは難しいのじゃないかなと思います。


また、それを思うと、その逆もあるかもしれません。「若い、日が浅い、時間の経過が少ないといったことが、良い方向に作用していないもの」です。


ただこちらは時間が経過していないぶん、これから時間が経ってどのようになるかが、これからいろんな方向に転じる可能性が考えられます。その点で、やっぱり「年季が入ったことが良い方向に作用していない」とはちょっと違うかもしれません。


幼いこどもと、高齢の人がコミュニケーションしている様子を、楽しそうだなと思うことがあります。「なんか、ノリが合っているな」と感じる、といいますか……


お読みいただき、ありがとうございました。考えがまとまりません。思念と思念が反発しあって、距離を置いてるみたいです。