ぼくの心臓

「あなたは、時間にしがみついていやしないか?」


ぼくにそう問う者があらわれたとする。問うてきたのは、老齢の男かもしれないし、いたいけな少女かもしれない。美女でも犬でも総理大臣でも軟体動物でもかまわない。問うてくる者の姿かたちは問題じゃない。問いの内容が重要なのだ。(好きな人に贈るラヴレターの用紙に、ファミリーレストランの卓上にさしてある紙ナプキンを選ぶか、文具の専門店に置いてあるきれいなレターセットを選ぶかと言われれば後者を選びたくなるかもしれないが、今伝えないと手遅れになる、しかし文具店に行っている時間はない、目の前にあるのはひと切れの紙ナプキンのみだという場合、それがたったひとつの答えであり、ベストな答えに違いない。ただ、愛を伝えたい対象に肉声を浴びせる機会が得られるのならば、紙ナプキンになんて触れずにその場を辞去し、その機会に向かって歩き出せばいいだろう)


時間にしがみつくとは、どういうことだろう。そんなことをぼくに問うてくる者があらわれたということは、ぼくに「時間にしがみついている」疑いがあるのかもしれない。あるいは、そんな当たりをつけるようなことや前提や文脈は抜きにして、それはぼくに対して率直に問うてきているのかもしれない。


あるいは、ぼくがその問いを引き寄せたのかもしれない。そう問う者を引き寄せたのかもしれない。それは、ありそうだ。ぼくは、じぶんを良くしてくれそうなものをじぶんの近くに置きたいと思っている。じぶんを良くしそうなものに、なるべくいつも触れていたいと思っている。そんな問いに出合ったということは、ぼく自身がそう問われることを望んで引き寄せたのかもしれない。ぼくは、そう問われたかったのかもしれない。


明日につながる道がここに2つある。


1.すごい困難や失敗や不運に遭う可能性と、すごい幸福やすごい成功やすごい達成を得られる可能性が五分五分くらいにある道


2.すごい困難や失敗もなく、すごい成功や幸運もまずないが、今日まで並に明日も平凡に生きていられる可能性が最も高そうな道


毎日、ぼくは生きている。そうすると、なるべく明日も無難に生きていられる行動を選びがちだ。つまり、2.のほうの道を考えなしに選びやすい。考える時間がないのかもしれない。


毎日、こなしていることがある。生活のリズムといえば聞こえがいい。昨日までと共通点を見いだしやすく、安定した過ごし方のことだ。そうしたリズムや過ごし方を構成する部品があって、適当にとりだした某日Aにも、某日Xにも、似たような部品が使われている。まったく同じではないけれど、同じ場所に用いても全体が崩れない程度に代替がきく、1日1日を構成するパズルのピースのようなものがある。それらの集まりで、ぼくの1日1日はできている。


何かものすごい、これまでとは変わった部品を急に入れようとすると、全体が崩れてしまいかねない。急にそこだけを入れ替えるのは難しい。その部品を用いても全体がうまくいくためには、現存するほかの部品たちをあきらめて、そっくり新しく探してきたほかの部品どうしを組み上げて、新しくパズルを完成させる必要があるかもしれない。


これは、それまでになかった部品Yのために、全体の構成を違ったものにするというケースだ。で、ぼくは多くの場合、これをしないで来た。全体の構成を変えなくても導入できそうな新しい部品Zとの出合いをおもしろがり、ありがたがり、ぼくは毎日をたのしく生きている。いや、たのしもうとしているし、そのための努力を厭わないように心がけている。


部品Zとの出合いのような、全体の構成を急にごっそり変えなくてもいいような出合いを繰り返していくうちに、10年前、20年前とはだいぶ違ったじぶんになる可能性がある。急にごっそり変えるから全体が崩れるのであって、ちょっとずつことを進めていけば、長い目でみたとき、リフレッシュメントが成立しているかもしれない。


「一新」というにはどれくらいの期間の短さによって入れ替わりが成立しなければならない、という定義・基準があるかもしれないが、その定義・基準をかなり緩いものにしてやれば、ぼくの「一新願望」は実はかなり叶っているのかもしれない。


それでいて、ずっと前から大事にしている部品は、磨かれて、輝きを増し、味わいを深めて、いまもここにある。なじみのものとも、新しいものとも調和を保ちながら、ぼくというパズルを組み上げるのにひと役買っている。それが、ぼくの心臓かもしれない。



お読みいただき、ありがとうございました。