あらわ、表出。〜インクの滲み、匂い、漂い〜

歌もギターもベースもドラムもピアノも、笛でもおもちゃでもなんでもかんでも、すべての演奏をたった1人でこなして、最初から最後まで曲をつくりあげるという音楽の制作スタイルがあります。この制作スタイルによる作品の発表がある偉大なミュージシャン、シンガー、ソングライターたちは後をたちません。ぼく自身もそうしたスタイルをとり、音楽制作を日々おこなっています。


1人がいちどに演奏できる楽器(パート)の数は、限られます。ギターをかき鳴らしながら歌うとか、ピアノを弾きながらハーモニカを吹くとか、せいぜい2つくらいでしょう。3つ以上になると、大道芸めいてきます。ですから、多重録音を可能にする技術の開発、機器や道具の発明のおかげで、ぼくは「仮想ひとりバンド」による音楽表現ができるのです。


これによってできあがる音楽は、すべてのパートをいちどに演奏できるぶんだけのメンバーを集めて、せーの!で音を合わせていちどにそれを録音した場合の演奏とは、かなり違った味わいになります。


また、「ひとりが一貫して最後まですべてのパートを、何度も楽器を持ち替えながら多重録音によって完成させた曲」と、それとまったく同じ楽器編成(パート構成)の同一の曲を、「パートごとに違った担当メンバーが多重録音して完成させた曲」とでは、これもまた違った味わいになります。


前者のほうは、ひとりの負担はすべてのパートの数ぶんになります。それに対して後者は、関わるメンバーの数だけ、その負担は分散します。


たくさんのメンバーと関わってひとつひとつの曲をつくりあげた方が、楽をできるとも云えそうですが、ぼくはそれをしません。苦しさのある道のりそのものを味わっているからです。


各楽器(パート)を、それぞれのスペシャリストが担当したほうが、できあがる演奏のクオリティが高くなり、より万人に高く評価されやすいものをつくれるかもしれません。でも、ぼくはそれをしません。ぼくがその演奏を、曲を、メッセージを、いちばん捧げたいと思っている対象は、顔の見えない万人ではなく、ぼく自身だからです。


どんな対象に、どんなものを届けたいかで、ふさわしいやり方を選べばよいのです。できあがるものには、かならず「そのやり方を通ったからこその味わい」があります。雰囲気を帯びます。香ります。


匂う、滲む、といった、「表現」の他に「表出してしまうもの」があります。狙ったとおりのものを届ける必要がある場合、「表出」は可能な限り削ぐべきでしょう。ぼくは、じぶんから匂ってしまうものや、じぶんのインクの滲みを確かめたいのです。ぼくが表現をのせようとしている土台、キャンバス、画用紙みたいなものの特徴だとか性質だとか、そこにのっかろうとしているぼく自身というインクの質感みたいなものだとか、その性格、振れ幅、そこに秘められた可能性だとかを、探り、切り拓いていきたいのです。



お読みいただき、ありがとうございました。