勝利体験はガイダンス

私が高校生のときの英語の先生がたびたび口にしたせりふが「間違えてもいいのよ〜」というものでした。卒業して15年近く経っている私の記憶に残っている名ぜりふだと思います。


間違った答えを出したという事実をつくることが、ほんとうの正解を導き出すための手がかりになります。それがたとえ即座に成果につながらなかったとしても、どういう考えでどういう答えを出したのか、その試行の事実さえ残れば、その先にある、より望ましい解にたどり着けるかもしれません。たくさんある「失敗する方法」のうちのひとつだとしても、それを明かしている状態のほうが、わずかだとしても有利です。もちろん、高い精度で数少ない正解を狙い撃ちすることができたら、それは効率の良さという観点でいえば申し分ないことでしょうけれど。


勝負ごとにおいて、負けの価値はじつは勝ちと大差ないのかもしれません。「勝ち」と「負け」というのは、勝負ごとのルールに沿った結果の呼び名でしかありません。アリとキリギリスも、ウサギとカメも、チャゲと飛鳥も、サイモンとガーファンクルも、それぞれを区別する際の記号でしかなく、その呼び名がどちらのものかということに価値が宿るのではありません。その呼び名がつけられたものの中身をきちんと知ることに価値があるのです。


勝って浮かれても、負けて落ち込んでも、そのゲームの内容について水に流してしまっては、その体験はなんの役にも立ちません。コンピュータのデスクトップに貼り付けた、元データの消失したショートカットアイコンのようなものです。参照できなければ、意味がありません。


一対一の勝負ごとは必ず、勝者と敗者を同じ数だけ生み出すのです。勝つ者と同じだけ多くの者が負けるのですから、勝つのも負けるのも当然のことといえます。


トーナメント戦で優勝するのは1者のみで、それ以外の者をすべて負けとみなすこともできるかもしれませんが、試合の体験の数は、勝負に参加した者の数だけ生まれています。たった1者のみの勝利の体験ばかりがありがたがられ、好んで語られ、好んで聞かれる傾向があるように思いますが、それはそのトーナメント戦全体という大きな体験、巨大な一塊の事実をすみずみまで味わい尽くすためのガイダンスくらいにとらえるべきで、そこからおのおのの着眼点から根掘り葉掘り堪能しつくすことが、生み出された事実に四次元の価値を見出すことなのではないかと思います。



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