他薦欲しがり時代

記憶をまさぐれば、ぼくはけっこう他薦で生きてきた人間かもしれないと思いました。身近な人や、出会う人からいただく「お前、これやったらいいんじゃない」「あの門、叩いたらどう?」「やってみない?」「やってくれない?」「合ってると思う」「向いてるんじゃない?」「もうやってそう」「できそう」といった声をもらって、それを真に受けて動いた経験が多いのです。


それはとらえ方を変えれば、主体性のなさ、受動的、もっと悪くいえば意志薄弱、流されやすく優柔不断ともいえるかもしれません。そういった誹りを胸を張って跳ね除けられるような生き方をしてきたかといえば、もちろん胸を張れる部分もあるのですが、突かれるとソコは確かに自分の至らないところだと認めざるを得ない、弱点があるのも真実です。


意識をじぶんからするりと離脱させて自己を眺めるとか、他者のなかにじぶんの意識を忍び込ませて仮想的に合致させるといったことは、けっこう想像力や知見、高度な観察力や分析力を要する技のように思います。


そんな技を持ち合わせていなくても、他の人のことはそのまま見ればそれだけで客観ですから、他の人の思うところをよく聞き取るというのは、下手なじぶんの客観よりよっぽど精度に長けるのかもしれません。


ただ、他の人の言うことに、見ていない部分を勝手な想像や思い込みで補ったり、素直なアウトプットを歪めているバイアスやフィルターがかかっていないかと疑う目もまた重要だと思います。それは、わたし自身がそうしてしまっていないか常に省みるべき注意点でもあるでしょう。


たとえばSNSを見たり使ったりしていて、現在の社会におけるその位置付けを「他薦欲しがり時代」なのかななんて思います。SNSは「じぶんはこれがいいと思う」という「お気持ち」の発信に使えるツールでもあるわけなのですが、そこに他の同意者がいなければ、より多くの無視を加速させるのです。逆に、同意者が多ければ多いほど、雪だるま式にその認知は加速されます。


ある意見が真に的を射ていても、他者の「お気持ち」の的を射ていなければ、その価値を見過ごされる機構ができあがってしまっていないかと、わたしは不安になります。穿ったものの見方とか、視点の独自性がかえってその持ち主の首を絞めるのです。そんなことがあってはいけないけれど、あるような気がしてならないのは、ひょっとするとわたしの取り違えかもしれません。そこへ疑いを持ち、究明行動を続けることもまた、多様性の担保になるかと思います。


じぶんの「お気持ち」も、他者からの同意が得られるものの中から「選ぶ」しかなくなったら終わりじゃないかなぁ?  なんてことを思いつつ、自薦と他薦のどちらも無視せず、認めて、自己と他己と折り合いながら、穿ったものの見方・視点の独自性・多様性の担保が醸成される社会づくりに少しでも貢献できたなら……という理想を持っています。


お読みいただき、ありがとうございました。