入れ子の島

「詩」とは、「ことばの意味の向こうにあるもの」だと、ある詩人が言った……かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、ぼくには、確かにある詩人がそう言ったように聞こえた。


ことばは、それと、それ以外を区別する。そのことばによって、そのことばが指す「それ以外」が定義されないことには、そのことばは成立しない。「僕」と言ったときに、「僕」と「僕以外」が区別されるとき、そのことばは意味を有し、機能したことになる。たぶん、そうだと思う。


それでいて、「ことばの意味の向こうにあるもの」ってなんだろう?


ぼくが「愛している」と言ったとき、おそらく、その言葉をかけた対象のことを、ぼくが愛しているという意味が生じる。でも、その一方で、〈ぼくがその対象に対して「愛している」と言ったという事実〉だけが、ぽかりと宙空に浮かぶだけのような気もする。その事実をとらえて、滑稽だと解釈するのも、噛み締めて儚さや虚しさを味わうのも、〈「愛している」と言った「ぼく」は嘘をついている〉と解釈するのも、ぜんぶ「そのことばが生んだ事実の島」の外側にいる人たちがする仕事だ。


詩とは、その「誰かさんが誰かさんに愛していると言った事実」と、それを多様に解釈する、島の外側の人たちの双方をひっくるめて、入れ子になった意味の島を浮かべるおこないにあるんじゃないかと、いまのところ、ぼくはそう思っている。


しばらく時間をおいて、いまぼくが言い放って浮かべた意味の島を眺めたら、また違うことを思うかもしれない。ことばは、変容する。「ことば」という部品をもちいて組み上げられた、歌とか詩とか物語とかも、変容する。いや、変容しないのだけれど、変容して感じられるのだ、相対的に。


お読みいただき、ありがとうございました。