ものさしの目

うちには0歳7か月の赤ちゃんがいます。赤ちゃんというにはからだの大きい子です。ほやほやとした赤ちゃんらしさはもう通り過ぎて、この頃では好奇心と探求の冒険家然としてきました。


まあ~~モノを落とすのが好きで(好きと本人から聞いたわけではありませんが)、つくえのうえに、私が置いた乾いたふきんを見つけると、手で払い落とします。それを私は拾います。ふたたびつくえの上にのせると、また払いのけるように落とします。だんだんと嬉々としながら、それを繰り返すのです。私のほうが先にいやになってしまって、そのうち手の届かないところにふきんをやってしまって、食事なりなんなりを始めようとします。


あと、私がへんな声をあげてみせたり、なにかしらの挙動を起こしたりすると、子はよく笑います。それをもう一度やると、もう一度笑ってくれます。これをやると、こう来る(わたしがへんなことを起こすと、子が笑う)というのがおもしろくて、わたしはそれを何回も繰り返します。ところが、4度、5度とくりかえすと、次第に子の笑いが乾いてくるのがわかります。「えへへぇ~っっ!!!」とはじめのうちは笑っていたのが「へへっ」「へぇ」となってくるのです。「うわ、いま私、子に惰性笑いをさせている」というのが申し訳なくなり、同時に楽しさも制動されて、私はそのへんで終わりにします。調子にのりやすい親、それが私です。子にたしなめられているかのようです。この先、子が成長した頃にも、別のケースで似たようなシチュエーションが訪れるのかもしれません。


上にも子がいまして、そちらは3歳です。下の子が生まれて何か月かすると、次第に下の子の真似をし始めました。また、母親が下の子にかかりきりになるのがおもしろくないようです。じぶんのおもちゃに下の子が触れても怒ります。下の子が、上の子や上の子のおもちゃに近づこうと動いただけでも金切り声をあげてわめきます。そういったことを、上の子の園の保育士さんに嘆きこぼすと、「うちではとにかく上の子を優先していました」と教えてくれました。なるほどなぁと思いつつ、そのようにできるときもあれば、できないこともあります。


大人が、子どもにそれはやめてほしいと思うことって、その範囲が家庭の中のみにおいてでしたら、さほど問題でない、子どもの行動を制限させるほどまっとうな理由がない場合が多いことに気付きます。確かに、この先、子どもらがいろんなバックグラウンドを持つ人たちと社会の中で交わる段階になったら、そのままでは困るであろうことは多いのですが、乳幼児期の段階でそれをたしなめるのは必ずしも有効ではないことばかりだと思うのです。


ふきんを落とす、拾う、落とす、拾うは、そんなことを物語るひとつの象徴的な局面のように思います。こんなものはまだまだ平和なほうで、もっとずっと家庭内がささくれ立つようなことが、我が家では毎日のように起きていますが、実はそのことでささくれを生じさせているのって、大人(親)が家庭内に持ち込んだ社会のルールが過敏すぎる(厳しすぎ、堅すぎ、頑なすぎる)せいかもしれないのです。


太陽がのぼっておちるとか、自然現象の類いに腹を立てて心の平穏を乱すのは賢明でしょうか。天体や惑星単位のことわり、気象のあらわれなどに子どもの挙動をあてがったり、それを列挙したりするのは、乱暴すぎるかもしれません。けれど、社会のルールが細かすぎて、縮尺が、スケール感がマッチしていないがために勝手に大人がきりきりしていることって多くないかと私は思うのです。子どものおこないの多くを、私は「やるよね。やるやる。おれでもそうする。わかるわかる」と思って見ているし、一緒にやったりもするし、子に先駆けてやったりします。そんな私も、子の挙動・態度にいらいらしてしまうこともあります。社会のルールがうんぬんとか言っているじぶんこそ、じぶんが見えていない。そんなことも多いです。


いやな思いをしたり、不穏や不快を感じるときは、その瞬間のじぶんのモノサシの上限を上回っているのかもあるいは、ミリ単位を知りたいのにメートル単位のおおざっぱなスケールを取り回して怒ってもしかたありません。いろんな単位のスケールをぱぱっ!ととっかえひっかえできる人でいたい実際そうなれるかはともかく、あきらめないでいることも大事だと思っています。


お読みいただき、ありがとうございました。