生き方の無人化

機械にもできるような、「考え」のいらない作業に人間の手が使われることを思うと、勝手に虚しい気持ちになることがあります。じぶんがそのバイトに応募したり従事したりしようとしている、というわけでもなければ、そのような気持ちになるのは妥当ではないかもしれないのに、勝手にそんな気持ちをじぶんの胸に起こすなんてことを、ぼくはたまにやらかすのです。それは、近い将来その作業に応募したり従事したりする人、あるいは現在すでにそれに似た何かしらの作業について手を動かしている人のことを下に見るような気持ちが、多かれ少なかれぼくにはあることを示しているのかもしれません。そんなぼくこそが愚かだとも思います。実はそうしたことのために最も手を割いているのは、ぼく自身であって、そんなじぶんをじぶんで下に見るようなもので、勘違いで「実際のじぶんは上にいる」というような思い込みをしているに過ぎないのです。


機械がやれる作業が、ある時期より増えました。いろんな作業に対応した機械、施設、しくみがたくさん開発されたからでしょう。状況を見て判断をする、といったようなことも、簡単なものならばすでに機械ができるようになっています。いえ、複雑なものでもできるようになっていて、それこそ人間の目では見逃してしまうものが見えて、人間には判断がつかないようなことも判断してしまえるまでになっているとさえ思います。


それでもまだ、作業や判断が複雑に細かく入り組めば入り組むほどに、機械の介入が及ばず、人の生の手が必要だという状況は潰えていないことと思います。高度なものになればなるほど、まだまだそれは職人の仕事の域として残るでのではないでしょうか。


矛盾こそ、人間のなせるものだと思います。「気持ち」なんてものも、相反するものが同居します。合理化を命題にしてしまえば、そんなことはおかしい、非効率的だ、意味がないというものほど、人間固有の所作なのです。


高度な思考を要することが人間の仕事として残る、という論点は、もう方々で語られているでしょうし、僕に論じれるとも思えないのでここでは置き去りにします。無駄、矛盾、非合理、無意味そんなことを思わせるサービスには、今後も一定の未来があるんじゃないかぁなんて思います。


機械が無駄なことを楽しみだしたら、人間との区別が難しくなるかもしれません。いえ、いまでこそ、人間だってある意味機械みたいなものでしょうけれど。


お読みいただき、ありがとうございました。