跳ねっ返りの子

生まれたまちに、ずっといます。子どものころからいたまちで、いま、ぼくは結婚して子どもを育ててもいます。そんな未来がくるなんて、みじんも思ったことなかったです。


もっと、どっか行っちゃうのかと思っていました。でも、ぼくにとって大事だったのは、どこへ行くのかではなく、何をするのかだったのかもしれません。それがこのまちでもできることならば、特別どこかへ行く必要はない。そういうことなのかもしれません。


必要あらば、どこへでも行くでしょう。するべきことが別の場所にあるのならば、そのために。


どうしてここにいるのだろう、と胸に問うと、嘆きばっかりです。もっとどっか行っちゃうはずだったのに、と。どこかへ行きたいという願望があるようです。でも、そこで何をしたいかなんてイメージはあまりない。そんな願望に流されることを拒むために、ぼくはここにい続けているのかもしれません。


反抗心がつよいのです。ぼくは負けず嫌いなのです。見え透いているものに従うのが、おもしろくない。その通りになんて、なってやるものかと思います。(じっさい、服してしまっている部分だってもちろんあると思います。服してしまっている部分があるがために、このまちにい続けているという解釈も成り立ちます。)


ゲームが好きでした。勝敗がきっちり出て、勝ったらうれしいし、負けたらじたばたして腕や足を振り回したくなるほどに悔しい。だから、また次、次、と、際限なく挑みたくなるのです。


負けず嫌いだったじぶんが、最近薄くなっているような気もします。勝負が複雑になっているということかもしれません。ぼくには息子がいますが、気持ちを抑えられなくて全身を床の上に放り出して跳ねっ返り回っている様子をしばしば見ます。子どもの頃のぼくが、ああだったかもしれない。あるいは、今もそうーーー


お読みいただき、ありがとうございました。