勇気のBET

じぶんの目の前に右手を持ち上げて、人差し指をぴこっと曲げる動作を想像してみる。それで、その動作を、想像したとおりに実行してみる。ひどくかんたんである。これは、じぶんの意思のとおりにものを実行するお試しのためにやってみたことだ。


そんなもの、実現するに決まっている。せいぜい、1〜2秒を無駄にしたくらいだ。代償が、それしかない。


勇気というのは、ある程度、取り返しのつかない結果に踏み出す原動力のことをいうのかもしれない。(先ほど無駄にした1〜2秒だって、実は取り返しがつかない。費やした1〜2秒は、もう永遠にかえってこない。この短い時間の消耗でさえ、積み重なったらそれはこわい結果を連れてくるかもしれない。)


目の前にやって来んとしている電車に、もう少しがんばって急いでからだを動かして、なんとかして乗るのと、さらりとあきらめて次の電車を待つのとでは、さきほどの1〜2秒の消耗の有無よりは、もう少しいくらか、大きな差が結果にあらわれるかもしれない。


スポーツをプレイしている最中だったら、一瞬の判断、それによる行動のひとつが勝敗を分けることだってある。あの瞬間、べつの判断をしていたら、実際におこなった動作のなにかひとつをちょっとでも変えていたら、結果が180度違っただろうなんて、長いこと気にして引きずる選手がこれまでに何人いたことかわからない。


ながい時間をかけて貯めたお金を一気にたくさんつかって、大きな買い物をしようというときの決断、その結果にあらわれるものは、1〜2秒を費やして目の前で右手の指を曲げてみせた無駄の有無よりは、はるかに大きな差だろう。右手の指をぴこっと動かしてみせることにほとんど勇気はいらないが、その延長上のずっと先をどんどん行くほどに、なにがしかの勇気のなせる業が延々と立ち並んでいる。


意思を持ち、そのとおりになるように行動をおこす。勇気の張り方に、生き方があらわれる。


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