ディグるよろこび

おれはそんなことでそんなに簡単に心を動かされないぞ、という姿勢をとるクセが私にはあるかもしれません。


はやりものは、まず疑います。様子をみます。相当の間、じぶんに取り入れることをしません。ふーん、なにがそんなにすごいのかねぇ、なんて思っています。ほんとはすごくいいものかもしれないのに。


その疑いも、様子見も、やたらめったら考えなしにしているわけではないつもりなのですが。じぶんなりに、あたらしいものを導入するかどうか、その代償を支払ってまでそれを手に入れる必要が今のじぶんにあるのかどうか、ちゃんとみているつもりではいるのです。


今のままのじぶんを、まず守ろうとする。そういう姿勢なのかもしれません。今のままのじぶんがそんなに良いとも思ってもいないのですが、今のままのじぶんにもいいところはありますし、そのままでいることの良さもあります。それを変化させることを、まずはためらってみてからでも遅くないと考えがちなのです。あたらしいものがじぶんに変化をもたらすものであった場合、その変化がじぶんののぞむものなのかを慎重にみているようです。


じぶんにとって価値のある変化でなくとも、ほかの誰かにとっては欲するもの、のぞみどおりのものかもしれません。私の姿勢は、「じぶん基準のみ」をなににでもあてがうクセなのかもしれません。いったん望まない変化への恐れなんかを脇へ置いておいて、いろんな人を仮定した基準を想像してあてがってみるのを、わたしはもっと試すべきかもしれません。ああなるほど、今のぼくには必要ないかもしれないけれど、こういう人にはいいかもねと想像するのです。その、「こういう人」に、いつじぶんがなるともわかりません。


軽くあいさつをする、初めて会った人に笑顔で対応する、くらいのことならどんどんやれますが、両の手をたたき合わせて賞賛する、となるとこれ、やっぱりすごい反応です。全力で出会った対象を吟味し、その価値を認め、受け入れたよろこびによる感情の爆発。拍手とは現象なんだと思います。どんなに願っても、雨が降ったり風が吹いたりをコントロールすることはできません(似かよった状況の再現でなく、ほんとうの自然の天候として)。吹くときは吹くし、降るところに降ります。赤ちゃんが笑ったり手を叩いたりするのも、そんなものかもしれません。


大人のする拍手には表情があります。赤ちゃんの浮かべるような表情と同質のものも認めますが、後天的に身につける「表情」もあるように思います。かたちとしての拍手を増やそう、笑顔を増やそう、というよりは、自然にその現象がおこりやすいじぶんにいかにしてなるかとか、そういう環境、場所、状況にいかにしておのれの身をなるべく置くようにするか、というところなのかもしれません。


「はい、拍手ーー」なんてMCに、従いたくないなと素直に思う。そんなことってありませんか? 


提示されたものに要求された通りの反応を起こすのは、じぶんに合っていないかもしれません。じぶんで見つけたものにならば、心からの感動をどんどん伝えられる気がします。


お読みいただき、ありがとうございました。