時差ボケ

くせについて思います。楽をして座っているつもりでいるのに、じつはその座りかたが、からだに負担をかける座りかたになっていることがあるようです。


いい姿勢をしているつもりでも、それは「いい姿勢風」なだけで、じつは無理があるとか、からだへの負担が大きい姿勢だとかいうことが、けっこうあるようです。


じぶんの姿を動画でみるとかすると、へえ、こんな動きをしているのかと意外に思うことがあります。鏡の前に立ったときは、その姿を見ようとしているじぶん、じぶんに見られることがわかっているじぶんが映るので、見よう・見られようという意識があります。また、随時その動きをチェックできます。その環境やその意識がないときにするじぶんの動きだったり、姿勢や態度だったりといったものは、それが随時どんなふうか、意外と私はわかっていないようです。


楽にしていいときは楽なように、がんばらなきゃいけないときはがんばるようにしようとするのですが、楽にもなれず、がんばれずと、適当な動きをとれないクセがあるのかもしれません。楽にしたいときは少し意識してキリっと、がんばりどころでは意識して少し力を抜く、くらいでちょうどよかったりということが、その最中には意識できずにいるのです。


それまでに蓄積した知識や経験がもとになった、いまのじぶんの姿勢や態度が生まれているのだと思いますが、それがじぶんの望むとおりになっているとは限りません。けっこう、へんてこな姿勢や態度をとってしまいがちなじぶんのクセを思います。


周囲の人が鏡のような役割をしてくれるというのはしばしば私の思うことです。なんでこの人はこんなにイライラしているのだろうと思うと、それは実は、私のイライラを映しているのだと気づくことがあります。やっかいなのは、その反映に時差があることです。少し前に私がとった態度が、少ししてから周囲の人に映っているかもしれないということこれが、私がなるべくじぶんの反応を穏やかに変化させようと意識するクセの根底なのではないかと思います。


私のとる態度や姿勢も、少しまえに、周囲の人から受け取ったものかもしれないということ。あるいは、だいぶ前、かもしれません。時差があるのです。


お読みいただき、ありがとうございました。