安全な庭

できそうなことしかしなくなってしまったら、いまできることをできるままに保つだけになってしまいます。いえ、できることしかできない、というのも真だと思います。知っていることしか知らない、みたいな話になりますが。


やったことがないことをやってみる、ということの可能性について思います。知らないことを知ろうとする。というか、できるかできないかわからないことをやってみる、ということでしょうか。


もちろん勝算を持って行動するというのも大事なことだとおもいます。どこをどうしてやろうと意図を持って動く、その精度が勝率を上げるかもしれません。


たしかに、だれかになにかの手本を見せてやろう、見本をみせようとするとき、その人は多くの場合勝算を持っているのかもしれません。


僕はじぶんのことを思い返してみると、ときに、あまりできるかの見通しを持たずに見切り発車をして、見本の実演に失敗することがあります。うまくいった例のショウに失敗するのです。「これは失敗した例だね」と一言、それで済む場合はいいでしょう。僕が見切り発車をするのは、そういうときだけなのかもしれません。それってむしろ、うまくいっても失敗してもダメージが少ないという見通しをしっかり持って発車しているともみなせます。ああ、やっぱりぼくはぼくにとっていやらしい、勝てる、もしくは負けても何も賭していない、失われるものが少ないときにしか動かないやつなのかななんて思います。


そう、賭す覚悟が僕には足りないのだとよく思います。とくに大きなものを賭さなくてよい、安全な庭で、ずっと、風に乗って流れてくる種を育んでその生長の様子を観察しているに過ぎないのです。


そうやって、大きなものを賭さないかわりに、定常的に、少しずつ、とはいえそれも積み重なればそれは甚大な量の「消耗」をしているのかもしれません。時間は確実に、定速で定量ずつ失われていきます。


定速・定量というのも、ほんとはちょっと疑ってもいいのかな。なんだか、時間の本質ってそうなのかしらと漠然と疑問に思わなくもありません。所詮は人間が発明した概念なのだと。あるところではびゅんびゅん過ぎていて、あるところでは、もったりゆったり、たゆんでいるのではないかと。「賭さない者」の戯言でしょうかね。



お読みいただき、ありがとうございました。