向こう側からの視点

亡くなってしまった人から見た生きた人は、どんなだろう。ぼくも、亡くなったらその視点が得られるだろうか。今は生きているし、生きている人が想像する亡くなった人の視点しかぼくにはない。それは世界を俯瞰したり拡大したり自由自在に視点を操れるようなものなのだけれど、生きているぼくが想像している時点で(亡くなったことのないぼくが想像している時点で)、やっぱりそれは生きているものの視点でしかない。仮にぼくが亡くなったって、生きているうちに見たいろんなものから導きだせることしか、亡くなったあとの視点に反映されることはないだろう。へんな話をこんなにつづけてしまったけれど、亡くなった人の視点というのは、その人が生きたあいだの視点の総合だと思う。そのいくつかは、忘れたり割愛されたりするんじゃないだろうか。生きている人のものと、あまり大差ないかもしれない。今後、ほかの人と交わること、生きてじぶんの体を運ぶことで新たな視点が得られることはないだろうから、一冊の本のようなものだ。間違いも正解も事実も虚構も含めて、もう変わることのない視点。それが、亡者の視点、だろうか。


ぼくはことばを書くことに興味があります。歌を書くのもおもしろいです。声の抑揚、ストップ・アンド・ゴーと歌詞、それを支える和音やビートの組み合わせがこんなにもおもしろいものだなんて、それを書いたりつくったりし始める前には知りませんでした。


コピーライティングみたいなことを、仕事としてやることがあります。コピーを書くことを専門とする人が世の中にいますが、コピーを書くこと、それに近いようなことって、どのような人の仕事のなかにも、生活のなかにも、多かれ少なかれ含まれているように思います。過不足なく、伝えたいことを含み・孕み、対象にそれがどう作用するか、どう展開されるか、どう咀嚼されるか、あるいはそれをしてもらえる心のいちばん外側の扉をまず開いてもらえるかどうかなんてことを想像しながら、あれこれかたちを工夫するのです。そのかたちが、はだかんぼうの言葉であったり、歌であったり、写真や画であったり、建築だったり時間にまたがったものや人の動きであったりするのです。


じぶんがなったことのある状態、おかれたことのある境遇、いたことのある環境、そんなものとの共通点を見つけると、仮にすべてが一致していなくとも、その共通点を含んだ状況のさなかにいる相手のことを理解する、その相手の視点を想像する手助けになります。わたしたちが、ものを知りたいという気持ちを起こすいちばんの根源は、他者のちからによって生きているということにあるんじゃないかと思います。