ノーサイドの精神

近々、ラグビーに関係のある、地域のちょっとしたイベントに顔を出させていただくことになりました。それをきっかけに、ラグビーのことを今より知ろうと思いました。


ぼくのラグビー経験といえば、高校の体育の授業で何度かやったくらいのものです。期間にして、1ヶ月あったかどうか。バスケットボールやサッカーと違って、それらよりいくぶん強く、はげしいかたちで接触しても合法とされるスポーツであるところが、ぼくには非常に魅力的に感じられました。バスケットボールをプレイして、すこし相手のからだとじぶんのからだが強めに接触したくらいですぐファウルとなってしまうことが、ぼくがバスケットボールをプレイする際のちょっとした不満でした。いえ、それは、バスケットボールの道をちっとも誠心誠意きわめようとする位置にいないぼくの浅はかさに起因するものでしかないのかもしれませんけれど。ただ単純に、うわぁ、ラグビーってパワフルでガッツフルでいいなぁ、と思ったのです。


ラグビーの知識を求めて、ルールブックやガイドになりそうな書籍を手に取ってパラパラめくってみると、「ノーサイド」ということばが目に入りました。なんでも、観客は応援するチームによって客席の位置を分けないのだそうですね。どちらのチームを応援していても、入り交じって観戦するのだそうですね。(観戦経験がぼくにはないので、その様子を実際に目にしたことはまだないのですが。)それって、すごくフェア精神に根ざしていてすてきだと思いました。


じぶんはどこそこの何者であって、という属性があること自体は否定しませんが、それのせいで、ほかの属性のだれだれは認められない、ということはないはずです。それを実現しうる場が「ラグビー」なのかなぁと思いました。ほかのスポーツにももちろん、みられることかもしれませんけれど。


スポーツでなくとも、商売だって、地域でのわたしのようなちいさきものの毎日の生活でも、それは変わらないはずです。認めたいし、認められたい。受け入れたいし、受け入れられたい。じぶんも、ほかの属性を持ったものと形式的におなじようにする、というのでは必ずしもなくとも、あなたはそうする、そういう形式をもっている、文化・風習がある、ということ自体は、いくらだって受け入れられるはずなのではないかと思うのです。



お読みいただき、ありがとうございました。