小魚の群泳

私は33歳ですが、こどものようだと言われることがあります。それを嫌じゃないと思う私がいます。


趣味の世界に没頭していると言ってもさしつかえないのが私です。かつては、いま私が趣味としていることで生きて行ければいいと思っていました。今でも、まるっきりそのことを思わないわけではありません。けれど、そうなっていませんし、そのためにする苦労、勉強なんかに時間を費やす間さえ、その趣味の世界に捧げてしまうのです。長い目でみれば、ある期間に、きちんと努力や勉強のためにまとまった時間(細切れ、「チリツモ」でもかまわないと思いますが)を捧げて一流になることが、その趣味の世界で、それもより深く、あるいは高いところできもちよく生きていくための唯一の術かもしれないのに、それすらもできない小魚が私です。小魚の生をまっとうする道をまっしぐらに行っています。


生きがいとすること以外がたくさんあって、それをたくさんして、生きがいが恋しくなってちょっとの時間そのために費やすことができる、そこで得られる充足で、また生きがい以外の時を乗り越えていけるというのが裏返りのない世界だとすれば、生きがい生きがいとそのことばかりで頭がヒートしていくほどに、愛が苦しみに変わり、生きがいのためにしていたはずの仕事をしてつかの間、生きがいのことを忘れていられるというのは、裏返った世界ということになりそうです。


その人の生を棒に振ろうと、他者に迷惑をかけなければいいのかもしれません。いいえ、人は関わり合って生きているのだから、迷惑の原子のひとつぶさえもおれには影響ないというのは間違いかもしれません。いえ、そうすると迷惑の意味を広げすぎているようにも思います。それぞれある権利の行使、それがぶつからなければいいということでしょうか。それもなかなか、難しいバランスの上に成り立つことのようにも思います。大物になる自由もあれば、小物でいる自由もある。大物の生をまっとうできるのは大物になるための代償を差し出した当人ですし、小物の生をまっとうするのは、そのままでいるしかない程度にしか代償を差し出さなかった当人です。差し出せるものがなかった? というのは、いかにも小物らしい言い訳ですが、資源は有限ですから、そのぜんぶが言い訳だと言い切るのもまた間違いである、とも思います。ただ、大物の生においては一日が28時間になる、なんてこともないのは事実ですから、やはり言い訳でしょうね・・・いや、時間についてのみいえば、ですが。場所やお金の配分が均等というわけでは決してないでしょう。ただ、そのいずれも、平等にあったはずの時間から生み出されたものだと言われればそれも真と思います。


じぶんさえよければいい、で、気持ちよく生きて行ける瞬間があったとしても、それは乳幼児時代の一瞬みたいなものかもしれなくて、こどもは、どこかでその先の属性をじぶんの中に入れていかなきゃなりません。でも、あのときのこどもの成分が、属性が、時を経た私の中にまるっきり失われたのではないというのも認められる場合があって、それを感じ取っていただいたとき、私は「こどものようだ」というお言葉をいただくことがあるようです。


お読みいただき、ありがとうございました。