事実のまるはだか

死ぬということを、ほんとうにじぶんの近くに感じることができないと、ついつい、まだまだ遠いもののことのように思ってしまいます。いえ、それは自然なことといいますか、順当なことといえばそれはそうなのですけれど。10歳にとっての死と、80歳にとっての死、本人と死との距離感に違いはないとするのは、あまりにも乱暴で粗雑です。


こどものころに考えた死というのは、それはもうほんとうにおそろしかったなぁと思い出します。なにもなくなってしまう。死という境目を基準にして、そこから先が真っ暗闇という感覚です。ほんとうに死んでしまったら、真っ暗闇すらないのかもしれません。こどもはやっぱり、まだわからない未来をたくさん持っていますし、可能性があります。どうなるか、わくわくする、期待する気持ちがたくさんあると思います、じぶんの未来に対して。


それに比べれば、今の私は、あのこどもだったときよりはいくらか、どうなるかわからずにわくわくするような気持ちの量を少なくしてしまっているように思います。それはそう、10歳くらいのときの私を基準に起算すれば、20余年の事実を明らかにしてしまったのですから。その事実はなくなりませんね。記憶はあいまいですから、事実に対して勘違いだとか間違いは起こるかもしれませんが、事実そのものが変わることはありません。


ほかの人がわたしのことを見ていて、あのときああだったよねとか、あんなこと言っていたよねとか教えてもらえることがあります。そのときわたしは、ええ、そうだったのかと事実のまるはだかの姿についての新たな知識を得たかのような気持ちになります。じぶんに関わる事実なのですけれど、知らないものですね、そのぜんぶを必ずしもは・・・。


大きな台風に備えて、普段とらないような行動をいくつもとりました。風や雨がこれくらいの強さでやってくるかもしれないと警戒して、いちばん被害が少なくなるようにできる最大限のことをしたつもりでした。朝起きてあたりを見回してみると、私のあたまで考えた最大限の被害よりはだいぶ少ないように思えました。ですが、私の家の周りの、ごくごく狭い範囲のことです。ニュースをかきあつめると、被害の大きかったところのほうぼうの様子が伝わってきます。


お読みいただき、ありがとうございました。