現世の通行証

問いを出されると、いい答えを言わなきゃという気になります。出題者の意図した関門を、私はクリアできる者ですよ〜とアピールしたくなるのです。そんな、出題者にすり寄ることもないでしょうに、そういう気になりがちなのが私なのです。


いい問題は、答えがその人によってちがう問題です。答える人の考え、その道筋、根拠としたその人の経験がしっかりしていれば、それもまた正解とされるような問題。いえ、正解といいますか、ただの「可解」とでもいえましょうか。乱暴に「いい問題」なんていいましたが、用は、「1たす1は?」なんてことの理解力をはかられるような場面ってのはそんなに日常的にあるとは思えません、もちろん算数をはじめたばかりの学級における先生と生徒の間は例外ですけれど。


問題を出す人に気に入られたい、問題を出す人を唸らせてすこしでも一目置かれたいという気持ちよ。問題を出す人というのは、有力者の象徴みたいなものです。有力者というのも相当いやらしい言い方で全然気に食わないのですが、貧相な語彙力の私にはほかに言いようが浮かばないのでママイキにいたします。有力者に気に入られれば、有力者をじぶんの力で動かせるかもしれません。そうなれば、じぶん自身が有力者に仲間入りしたようなものなのです、実際に、ほんとうにそうかどうかは、別として。


問いを出せる人が、重要だと思います。問いを発せる、問いを見いだせること。「問える」ことが、重要だと思います。重要だなんて物言いも、さも「重要でない」ものがあってそれと差別しているかのような視線の存在を思わせるので、もうまったく思わしくないのですがやっぱり貧相な語彙力の私はここではママイキとしてしまいます。


とにかく、そんな、重要人物の仲間入りをしたい、ちんけな門外漢が、わたしなのです。門の外も結構たのしくて、いろんなことがやらかされっぱなしの放りっぱなし。ルールなんて、ないようなものです。いえ、でもルールに縛られてもいる。門の中は、ほんとうはこちらで、自由な外側にいるのが、重要人物(ああ、なんて気に食わないモノ言い)たちなのです。門の中に、私を飼っている。そんなイメエジです。


なんか、すぐヒクツな感じになってしまいます。私に、いったい何が問えるのか? 問われたことにろくに「正解」も言えない私が? いえ、そんな「正解」、機械にでも導き出させておけばいいじゃない。(ああ、ヒクツ)


問い。いかにして、生くべきか?  ———問われなくても、生きてます。


お読みいただき、ありがとうございました。「生」を提示せよと、じぶんに問うています。