おとといのあさってはグレープフルーツ

だれかとだれかの幸せがぶつかるから、みんながみんな幸せというふうにはなかなかならないんだろうか。その原因は、じぶんは幸せだとなかなか思えない人にあるんだろうか。その人の価値観、思い方、考え方がおかしいのだろうか。それを正せばいいのだろうか。そんなこと、許されるのだろうか。


外からやってくる話に流されてはいけないような気がする。でも、外からやってくる話に「乗る」も「乗らない」もじぶんである。それでは、「乗る」のはいつでも悪いことだというふうになってしまいかねないんじゃないか。決してそんなことはない。「乗らない」ほうが悪いことだって、「乗った」ときが悪かったのと同じくらいあるに決まっている、ような気がする。だから、「乗る」とか「乗らない」が、いいとか悪いとかを決めるんじゃないと思う。乗ってしまったこと、乗らずに見過ごしてしまったこと。それを後悔するのも、認めて、受け入れるのも、同じくらい、良くて、悪い。きっと、そうだ。いや、良くて悪いというのがしっくり来ないのならば、きっとほかにことばがある。僕がそれを知らないだけだ。


音楽のありがたさを僕は知っている。だれよりも知っている、というほどには知らないかもしれない。けれど、じぶんの人生を動かす方針をいかにするか、その決定権のほとんどを、僕の場合は音楽がもたらすありがたさが握っているような気がしている。


てんこもりに盛られた、食堂の大盛りサービス。食堂というのじゃなくても、食べきれるのだったらいくらでも大盛りにしてあげるというラーメン屋さんだとかが、かつて僕が学生をやっていたときに過ごした街にあったような気がしていて、その店のことをふと思い出す。何かをしている人にありがたいことを、じぶんの負担をかえりみずにできるのって、いいなぁ。


じぶんのことを、みなまで言えない。言い尽くせる言葉も知らない。そんな巧妙で機知に富んだ話の組み立てもできない。度胸もないし、覚悟もない。目の前のごはんがおいしいこととか、照れ隠しなのかへんに突き出したおしりや拳をふってお道化てみせるとかするのがせいぜいで、僕はじぶんのことをみなまで言えない。そういうのを、なんとなくこの人はわかってくれているような気がするというのを一方的に思い込むことを許してくれるような気の合う人というのがいて、たまにかもしれないけれど、そういう人の存在をひとえにありがたいと思う。向こうも、そう思っているかな。その想像にともなって、ニンマリが生まれてしまう。これを奇跡と呼ばずに、なんと呼ぼう。やはり、僕はそれをあらわすのにいいことばを知らない。


ぼくのところに、何がまわっってくるのか知らない。明日手にするのは、赤いりんごかもしれない。今日はグレープフルーツだった。明日はキウイかもしれないし、空っぽのどんぶりかもしれない。手術台の上に乗ったミシンかもしれないし、ペットボトルのふたかもしれない。あなたと出会う未来かもしれない。


やっぱり今日も曇っていて、雨が降っていて、外に生身のまま出たらびしょ濡れになる様相だとしても、出るも出ないも、どっちもあるし、出ないわけにはいかない理由もあれば、出なかったらなんだ、おれの人生終わるのか? そうじゃないだろう? という無駄にとしかいいようのない勇ましさを与えてくれるのにふさわしい空模様が今日だったりする。この今日は、明日にとっての昨日かもしれないし、おとといにとってのあさってかもしれない。


お読みいただき、ありがとうございました。