出会いの相違

こんなにラグビーの試合に視線を注ぐじぶんがいるなんてことに、かつての私なら驚くことと思います。試合をみてみて、「おもしろい」とひとたび思えば、その対象に視線を注ぐじぶんはなにも不思議な存在じゃなくなります。「へぇ、しらなかった、こんなおもしろいんだ」と思ったときの発見のよろこびは、忘れたくないですね。


純朴に感動したかのようなことをいっておきながら、いつまでこの新鮮な驚きを持ち続けていられるかわかりません。今後の人生において、その体験に基づいてどれだけ行動するようになるかが、その発見や気付きの驚きの大きさがどれほどのものだったかを示す根拠になることと思います。


じぶんの人生を狂わせてしまうほどの強烈な驚きを、感情の高ぶりを経験したことが私にあるとすればそれは何かといえば、音楽のことだなと思います。じぶんの背負ったもの、抱いたもの、その質量をそのまま曲をつくることに込められたと感じたときのこと、その曲ができたときのことは、ずっと忘れないし、じぶんの人生を決める判断を迫られるときにはいつもその経験が機能していることを思います。それが、必ずしも、いつもじぶんの人生を快適で高い望みのほうへ押しやってくれているとも限らないのですが、それでいいと思える、そんな指針になっています。


ラグビーのワールドカップの試合、その観戦にまつわる体験が今後の私にどのような影響を与え続けるか、まだそのすべてがわかったものではありません。もちろん、私にとっての音楽にしたって、はじめてそれに「触れた」ときから、それがその後のじぶんの人生に大きな影響を与え続ける存在だなんてことはわかりえなかったわけですから、出会ったばかりのものとの関係が今後どうなっていくかわからなくても不思議ではありません。


「あのときが、その存在を強く認知した瞬間だった」と思い返すことがあって、たとえば、私と音楽の出会いを説明しますと、「4歳のときにピアノを習い始めたんですよね」という切り口で語ることもできるのですけれど、「高校を卒業したくらいのときに、失恋をネタに曲をつくったことがあって」という切り口で話すこともできて、後者のほうが、私の抱く印象は強烈なものなのです。もちろん、前者の私は4歳ですし、覚えていないだけで、そのときの私にとってもピアノにまつわる体験は相当に強烈なものだったかもしれないのですけれど。前者も、忘れてしまっているようでも、確かに今の私に影響を与え続けている「驚き」との出会いだったのかもしれません。



お読みいただき、ありがとうございました。