奥行きへのアクセス

私はじぶんの住む地域の、ある公共施設で働いています。そこを、たくさんの市民の人たちが利用します。


たくさんの人といっても、決まった顔ぶれともいえます。新規に参入して、市民活動をする人としてそこに根付く人はごく一部です。


一方で、すでに何かしらのグループ活動をしている人たちは、じぶんたちの高齢化に悩みがちでもあります。新規会員があらわれてくれない、と。それなのに、ひとり、またひとりと、健康上の理由やそのほかの事情なんかで活動をやめていく。だから、会のメンバーがだんだん減って行ってしまうのです。


ある時期に、望んでもいないのに、あるいは望んだとしてもその望みを超えるくらいに向こうから勝手に人が集まってくれた時代があったかもしれません。でも、今、そうでなくなっている。そんな悩みを持つ人たちの集まりがあるのじゃないかと、私の視界を出たり入ったりしていく人を見ると思います。


じぶんだけが新しく参入する存在で、それ以外はみな大先輩ばかり。というのだと、その分野やなんらかのくくりを持った集合に参加することを、ためらってしまうかもしれません。じぶんのように新しく参入しようとする人が同時期にたくさんいるとか、大先輩だけじゃなく中先輩も小先輩もミクロ先輩もいて溝がなく段階的、あるいは無段階なほどにスムースにその分野や集合における奥行きへのアクセスがある・・・といった状況があると、それは、新参者にとって、入りやすく、ありがたいことだと思います。


「すでに(その分野に)いる人」、その歴の長短さまざまな人がまんべんなくいる分野・集団は、豊かといっていいのかもしれません。なかなか、どこもそうではない。だから、じぶんたちのグループのこと、分野のことで悩む人が今日もどこかにいるんじゃないかな、と思います。


ある時代を背景に生まれた動き、しくみ、制度、そんなものをきっかけに持つ集団や分野は、時代が変わってもそのままでいると、だんだんつらくなるのかもしれません。いえ、それも、時代の変わり方とか、そのグループの立ち位置がどのようなものかにもよるのかもしれませんが。なかなか「ガラパゴス××××」といったように、じぶんたちだけ不変でいられるという状況は少ないことと思います。社会と密接に関わった活動であればあるほど、柔らかく、それでいて剛健な変容、あるいは不変容を要するのかもしれません。矛盾をはらんでいる・・・かもしれませんが、人間を基にしたことって、なんでもそうみたい・・・なんてふうにも思います。


センパイ、リスペクトです。(後輩のことも、同輩のことも!)