からだに、こころに服を着せて

「それは仕方ないよねぇ」という理由で、入っていた予定が「なくならねぇかな」なんて思ってしまうことがあります。


私は予定を入れるのが好きではありません。予定を入れること自体に好きとか嫌いとかいう感情を抱くのなんてなにかがおかしいともおもいます。そう、すこし、私はおかしいのかもしれません。


予定があると、その予定をまっとうするためにじぶんをコントロールしていカニャなりません。それって、私にとってけっこう精神的な負荷だったりするのです。


ただの弱音といえばそうです。逃げだと言われればそうです。損するのはあなたなんだから勝手にしなさいといえばそのとおりだと思いますし、勝手にしています。そのことで、じぶんの無計画のせいで損をするのは、私です。私は私に、予定を入れることによけいな感情を付すことで、じぶんに損をさせているのかもしれません。


なにか、入れていた予定が、じぶんを発端とした理由ではなく、ほかからの理由で中止になったら、じぶんはわるくないと言い張れてしまいます。こちらのモチベーションの高い低いなんて関係のないところでそれが決まったのですから。


なにか、じぶんがその予定に対して低いモチベーションでいることに対して、罪を問われないかとはらはらしているのです。いったいだれがそんなことを罪に問うのか? そんなことあるわけもない。私の思い過ごしのはずです。それなのに、なにかそういう、負荷をともなう自己コントロールを要求されてしまう、予定があることによって。そんなの、あたりまえかもしれませんが。


じぶんひとりで完結する予定だったら、好きなように変えてもだれもに迷惑がかかりません(真に“じぶんひとり”で完結する予定などありえるのかということはさておき)。


他者と関わる予定があると、その予定に対して、私が一定水準以上のことをするのを期待されてしまいます。たとえば、会う約束ならば、定刻にその場所にじぶんのからだを(からだに、それにこころに服を着せて)確実に運ぶことを期待されます。その期待がまっとうされるまでの間、私に相応の負荷を与えつづけるのです。24時間ずっとそのことを気に病んで負荷を感じ続けているはずなわきゃない、と言えば確かにそうです。じぶんで勝手に言い過ぎている、過大に感じているだけなのかもしれません。


じぶんひとりで完結すること、じぶんの好きなことだけで生活のほとんどを満たせたとしても、何かしらのコントロールに伴う負荷が消え失せるなんてことはありえないのかもしれません。地球が自転し、日没は来ますし、生理現象は生きているかぎり止みません。生きるとは、そういう苦しみも、あるいは快楽もみな連れて回ることなのかもしれません。



お読みいただき、ありがとうございました。