世界をうろつく好奇心

無駄なことが好きでして、いまも幼少期も思春期もずっとそんなことをやってきたような気がします。


少年時代に夢中になったブラックバスのルアー釣りも、釣ったら逃がしてしまう釣りです。食べるために、生きるために必要かと言われれば、そうでもなさそうに見えます。実際、成長するにつれて、学校を卒業して仕事についたり興味・関心の世界が広がったりするにつれて、だんだん釣りに行く頻度は減って行き、今ではほとんど行かなくなってしまいました。


私は音楽大学を受験して進学・卒業しました。音楽をテーマに4年間学ぶという選択も、なにかひとつ、無駄なことに心血を注ぐおこないとして数えてもいいかもしれません。


でも、たとえば生きるか死ぬかの危機のその最中に、音楽に費やしたキャリアがどれだけ役に立つか? と問われた場合にですね。私は、とにもかくにも、ものごとの考え方、状況への反射のし方、思考を「音楽」を通して磨いてきたわけですから、あらゆることに役に立っているんだよと云うのが私なりの、その問いへの答えなわけです。私という人間が生きるにあたって、音楽というものの影響を無視することは、私への人権侵害みたいなものだ・・・とでもいいたくなる程です。


偉そうにいっておきながら、そんなに、音楽において私という人間が秀でているわけでもありません。進学先を決めるにあたって、普通の勉強(ここでは音楽以外の勉強)をして学科試験を受けて、普通の大学(ここでは音楽以外の大学)を受けるなんて、じぶんにはしんどい、考えられない、成功する見込みもないというような「普通」コース(ここでは音楽以外の道)からの逃げが、音楽大学に進学するという決断の動機に含まれていなかったと言えば嘘になるでしょう。どこかしら、そういう、強いられる普通(ここでは音楽以外のこと)からの逃避がありました。


普通普通といって、音楽への道がまるで普通じゃないといっているかのようです。実際、私はそう思っているのかもしれません、稀でありたいと。(なんだ、普通とは単に多数のことを言っているのか私は)


稀であることで、じぶんが果たせる、じぶんだからこそ果たせる役割があるかもしれないとも思います。でも、そんな誉められたような、他者との関わりの中で活きるような志に根ざしたものがじぶんにあったとも思えません。じぶんをそういう方に押しやった気もしますし、それが流れであったようにも思います。


無駄なことこそが、私が生きるのに必要なことなのです。ここで仮に無駄なことと呼ぶのも、ふさわしくないかもしれません。問いに対して決まった答えをする、定型の反射行動を起こす、そのための訓練が音楽の世界にないともいいません。むしろそういう錬磨の先に真の目的があって、通らねばならない道であるようにも思います。どこの畑にも、そういうものがありそうです。


1に、決まった答えを導き出す力。2に、己の考えによって不定形に答える力。3に、問いそのものを立てる力。4は問いを立てるために世界をうろつく好奇心でしょうか。


心が、力を生むのですね。




お読みいただき、ありがとうございました。