昨年の紅茶、今年のコーヒー

手帳に日記を書くようになって、まる一年半くらい経ちます。「ほぼ日5年手帳」というのをつかっていまして、昨年の同じ日付の日記が、今年書こうとしているスペースのうえに自然にやってくるレイアウトになっています。それを見て、気付くことがしょっちゅうあります。


去年起きたことがらから、日常の中で起きたちょっと不思議な共通点といいますか、何かのヒントになりそうなちょっとしたことをきちんと回収できるようになったのです。たとえば、こういうこと。


ある日付の日記に、<ちょっといい紅茶(値段もそれなりで、味、香りがよくて、いかにもちょっとおしゃれな商業ビルとかで売ってそうな、ちょっとお高めの)を飲んだら、そのあとにやるべきこと、やりたかったことを、とても元気にこなすことができた、楽しめた>といったようなことが書いてありました。


それだけですと、ほんとうにそれだけといいますか、「いい紅茶はいいなぁ」くらいで、なんの回収にもならなかったかもしれません。でも、偶然か、なるべくしてなったのかわかりませんが、一年後の日記に、(その去年の日付の日記を読む前に)自然と私はこんなことを書いていたのです。<住んでいる町の、お気に入りのコーヒー豆屋さんで、ちょっと・すごくいい豆を買ってきて淹れて飲んだら、そのあとすごく元気に過ごせて調子がよかった。>


そう書いたあと、何気なく去年の日付の日記を眺めていた私は思いました。紅茶もコーヒーも、そのへんのどこにでもあるチェーンで売っているやっすいお手頃なやつ飲むより、ちゃんと好きないいとこで買ったいいやつを飲んだ方が、嬉しくなれるいいことが多いのではないかと。


こんな些細なことは、日記にでも書いていなけりゃ、そしてそれを読み返さなけりゃ、気付かないでいたかもしれません。それまでのことだったといえば、そうかもしれませんけれど。


それでも、こうした積み重ねがあることで、ここでは具体的には省きますが、さきほどのコーヒー・紅茶のくだりよりもいくらか大きく、私の人生に重要そうな気付きを拾えることもあります。


ことばをつかう、記す、残す、からだに覚えさせる。その蓄積へのアクセスを持つ。そういったことで、そのへんの動物の一個体としての私が、いっちょまえにそれなりに「人間」になれているような気がします。



お読みいただき、ありがとうございました。