続・〇〇コンシャス

「カレーの人」こと水野仁輔さんが、カレーのことを「プラットホーム・フード」という側面でとらえてお話されているのを聞いたことがあります(もうだいぶ前の話ですが)。カレーはカツを乗せればカツカレーですし、いろんなアレンジを受け入れるといいますか、いろんなアレンジが可能、そういう幅を持っている、可能性を秘めているというような理解で私は「カレーのプラットホーム・フードとしての側面」をとらえています。


ボディ・コンシャスという言葉が、たしか私が生まれて物心つくかつかないかくらいの頃にもてはやさていたようです。(じぶんにその記憶があるのは、「こういう時代があった」とメディアが取り上げて語ることによって形成されたためです。)「コンシャス」という概念も、なんにでもひっつくという意味で「プラットホーム・ワード」といいますか、なんにでもひっつく「概念」(英語でいうとなんでしょうか?)だなぁと思いました。


私は、高校3年生くらいのとき、最大4トラックまでべつべつに録音できて同時に再生可能なカセットテープ・レコーダーに出会ってしまって、何を間違ったのか曲なぞつくってしまって、それを録音なぞしてしまったがために、作詞と作曲と演奏と歌唱にずんずんとのめり込んでしまいました。それからというものの、私は「作曲コンシャス」であり、「作詞コンシャス」であり、「演奏コンシャス」であり、「歌唱コンシャス」です。歌唱に差し支えるので、いかにつねに風邪を引かないでいるか、最低限の歌唱の質を確保できる体調で居続けるかということをいっつもいっつも考え、「意識して」います。


「コンシャス」がいろんな単語にひっつくことを思ったとき、じぶんのことを「音楽コンシャス」というのが最初に浮かんだのですが、厳密には私はただの「作曲・作詞・演奏・歌唱コンシャス」です。それが的確であると気付いて、上段ではそう表記しました。「音楽コンシャス」なんていえるほど、私は音楽の歴史も現代の音楽もそのまるっとあらゆるすべての姿をちっとも知らないからです。もちろん、人並みに音楽を聴きますし、突き詰めたいという欲求も抱いていて、暇をみつけてはなるべく音楽を研究するように努めてはいます。「作曲・作詞・演奏・歌唱」という切り口でいつもいつも「音楽」を「意識して」いる、観ているという意味で平たく延ばしていえば、じゅうぶん「音楽コンシャス」かもしれません。


別の話になりますが、釣りの夢をめっちゃよく、昔から見てきました。夢で、家の庭とか、そのへんの水たまりとか、お風呂とか、なんでもない「水のあるところ」で釣りを私がはじめちゃって、それでめっちゃ釣れるというのがだいたいお決まりの私の「釣り夢」のパターンです。夢の中の私は、かなりの「釣りコンシャス」でした。現実の私は、ここ10年以上、めったに釣りにいかなくなってしまっているのですが。その後もしばしば夢だけは見続けているのは、10代の頃に釣りから受けた刺激・興奮がよっぽど強かったのでしょうね。


お読みいただき、ありがとうございました。