会話と好意

私は、しゃべるのが苦手という意識を持っているときがあります。でも、なぁんだ俺、しゃべれるじゃないのと思えることもあります。その間をふらふら行ったり来たりしています。


話をすごい誰かに聞いてもらえると、嬉しくてもっと話すのが楽しくなってしまいます。そういうときは、時間も忘れて話に夢中になってしまいます。自分のことを認めてくれているがために、相手はこんなにも私の話を聞いてくれるのだなと信じられるときのここちよさたるや、生きててよかったと思う程です。逆にたくさんの話を聞かせてもらえるとき、私がその相手を認めていることが伝わっている安心感から、相手は私にたくさんの話を聞かせてくれている、と考えることもできそうです。


でもときおり、私は非礼にも、相手の話を聞いていて退屈してしまうこともあります。はじめは相手の話をおもしろがって聞いていたのは事実だとしても、だんだんと冗長に感じ、嫌になってきてしまうこともあります。ずうずうしくも、「私がおもしろがって聞いているかどうかをキャッチして、それに応じて会話をしてくれよ」なんて思ってしまうことがあります。そう思っていることが相手に伝わって、相手のほうから話を切り上げようとしたり、話題を変えようとしてくれたり、こちらに振ってくれたりしてくれたらどんなにいいことかと思うのですが、私はそう思っている気持ちを態度であからさまに示すことで相手を傷つけやしないかびくびくしてしまい、時間の経過や第三者からの干渉に助けられて場面が転換する、ということがあります。


私のほうも、そうやって相手が退屈したり冗長を感じたりしているにも関わらず、自分が話しすぎてしまっていることがないとも限りません。相手がおもしろがって聞いてくれているかどうかを可能な限り意識して察知しようとしているつもりですし、こちらがたくさん話すことを許してもらえているときでも、相手に話を振るように心がけているつもりではあります。なんだか、うれしさとおそろしさのあいだでびくびくしながら話すじぶんが、心のどこかにいつもいるような気がしています。話を聞いてもらえるうれしさと、相手を退屈させたり冗長を感じさせたりしてしまうおそろしさは紙一重だと思いながら。


自然に会話できているときは、そんなことにびくびくする必要はないでしょう。アクション、反応、アクション、反応。かならず互いに影響しあいます。どちらが欠けても、会話になりません。一方的になりえないのが、「会話」なのでしょう。両者の間には、相手を認めている、認め合っている信頼感があるはずです。


会話のあるところには、ある意味、それ相応の好意が存在すると思っていいのかもしれません。会話の成立はすなわち、好意の存在証明なのだと。会話の数だけ、小さな恋愛が生まれているようなものです。相手への関心がお互いに通じている状態、といったところでしょうかね。


お読みいただき、ありがとうございました。