ライバルのエイジ

いろんな年齢の人に遊んでもらえるのって大事なことですよね。特定の年代の人とだけつるんでいたら、視野が狭くなりそうです。広さよりも深さ、遠さ、奥行きが求められることももちろんあるでしょうけれど。


相手をしてもらえるかどうか、かまってもらえるかどうかというのがミソだと思います。張り合う存在がある人は、伸びるっていいませんか? 「ライバル」の存在ですね。少年漫画で「好敵手」と書いて読ませちゃうアレです。


お互いを視野にいれていて、おもしろいと思い合っている状態。お互いのみどころを認め合っている状態、とでもいいましょうか。「あいつには一目置いている。そういう、すごいと思えるところがある」そう思えるだれかがいること。だれかから、こちらのことをそう思ってもらえること。そうした「お互い眼中にある状態」を、生きている限り維持していきたいところです。


じぶんが何かでがんばっていれば、年代の違う、異なる文化や背景のもとに育ったもの同士でも、認め合って眼中にいれあって生きて行けるように思います。


そういう、「目をつけてもらえるようなところがある人と、ない人がいる」と暗に示すような厭な言い方になってしまったかもしれませんが、それは本意でなくてですね。要は、今はまだ目をつけていないところにいくらでも目の付けどころはあって、そこにまだ気付いていないだけ、他人同士のままでいるだけ、という場合がほとんど、いえ、全部といってもいいかもしれません。


ただ、じぶんなりに「目をつけてもらえたりつけてもらえなかったりしても、ここまでやったなら納得できる」というところを目指していつも気張っているといいますか、ただ年とっていくのでなく最低限それをして年を重ねていきたいといいますか、そこまでして「老いる」のならばそれは抗えないし仕方ないと納得して受け入れられる・・・のではないかと思って生きています。