烏合の衆の相殺

毎日、その日のことかせいぜい明日くらいまでのことでいっぱいです。今週のこと、来週や今月のこと、年内とか来年のことになればなるほど、「うっすら」してしまいます。今日や明日をこのペースで進んで行ったら、来年や3年後5年後が来たときに「いつかこうなってたい」などと思っている自分の姿が現実になるとは思えません。そのことを、「うっすら」じぶんでも肌に感じているのに、なかなか今日や明日を変えられないでいるのです。


「防災」のことをふと思います。災害って、いつ来るかわかりません(台風は毎年来ますけれど)。いつかは必ず来るだろうとは思ってもいるのですが、その思いは「うっすら」なのです。どこかで、今日や明日にはまだ来ないだろうな、などと無根拠に思ってしまっている私がいます。30年以内とかならばまだしも。でも、今日や明日来る確率と同じくらい、30年とかしてもまだ来ない確率もありそうに思います。そこは、本当にわからない。災害ってそういうもんかなと無根拠に思っています。


「無根拠」に振り回されすぎなんでしょうかね、私。「無根拠」で、自分を振り回している。「現実」を直視して、根拠を持って、力を注ぐべきところにまとめて注ぐという方針を徹底できていない。あれもちょっとかじって、これもちょっとかじって、昨日は出会っていなかったものが今日現れたからまたちょっとかじって、とやっているうちに、1年とか3年とか5年とか前に「うっすら」こうなってたらいいなと思っていたはずの自分の姿とは、ちがう姿の自分になっているのです。


それをどこかで望んでいる自分がいるのも「うっすら」感じています。(また出た、「うっすら」癖か?)私は、私の「見立て」をどこか信用しきっていないところがあるようでして、私のなりたいものって、実は本当に私がそうなることを望んでいないものだったりするようなのです。私は、過去のじぶんが「こうなりたい」と思っていた姿を、裏切りたいのです。そのときには思いもしなかった自分が未来に現れるのを、喜んでいるようなのです。


それは楽観的でもあり、現実的でもあると自分のことながら思っています。ある意味、そうなってしまった現実を受け入れているのです。自分が弱かったり、足らなかったりして、実現してしまった今の姿を、受け入れているのです。でも、受け入れてしまえる自分を気持ち悪がる私も、同時にここにいます。


「見立てた通りの自分」を目指しつつ、生じるイレギュラーと対峙してせめぎあって、新しい私になっていくというのを幸か不幸か、そこそこ楽しめている実感があります。でも、あれもこれもとよくばって、「強み」がなんにもない自分になるのは本望ではありません。捨て上手、諦め上手になって、でも「これだけはある」っていう。そこを持った自分で、いつまでもいたい。


あれもこれも捨てきれていない、現実の自分。そいつの体をどこかへ運んでいくには、小さく出力不足なエンジンがつきすぎて、かえってどこへもいけない自重になってしまっているのかも。そいつらを削ぎ落として、でっかいエンジンを一発つけて出直す方法もあるかもしれません。でも、現実の私には、1個1個の小さなエンジンの出力が協調して合力するように「つなぎ変えてやる」「再配置してやる」のが現実的かもしれない、なんて風にも思います。それが、33歳にもなっちまっている私の出発点なのかも、などと……




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