滝行とホチキス綴じ

滝に打たれるという体験はどんなもんなのでしょうね。とてつもない冷たさの水が、からだを痛いくらいに強く打つ。その状態がつづく。寒さ、痛さ。口に水が入って、息がしづらいことでしょう。衣服がからだに張り付き、密着し、冷たいことでしょう。におい? 飛び散り、流れる水が鼻を覆って、においどころではない? もしくは、みずみずしいあの「水」のにおいでしょうか。なぜか、においのない「水のにおい」を私は知っている。(あなたもきっと知っているのでは?)


そんな強烈な体感覚をもたらすであろう「滝行」。なんのためにそれをやるか? と言われたら、そんなものをやる必要はどこにもないような気がします。「無意味」に思えることをなんで自分はしているのか? 無意味なつらいことをするそのわけは、決意を固めるためだったはず。この強烈な体の感覚を得ることによって、そのことを強く自覚するためだったはず。そんなつかいかたが「滝行」にはあるのかもしれませんね。特に、「ある決意」を固めることと、「滝に打たれること」との間に、合理的な関連性は見いだせない。その無意味さこそが、かえって決意の固さを掘り下げるのかもしれません。ぜーーんぶ、やったこともない私の想像でしかありませんが。


全然ちがう話かもしれませんが、ふと思い起こしたじぶんの体験をお話しします。すっごくちんまりした無駄話です。


私は、解決しなければならない問題があり、答えを探して考えつづけていて頭の中がなんだか休まらない気持ちでいました。そんなときに、ページごとに刷り出された紙の資料を、ページ順に組み上げて左上をホッチキスで綴じるという作業をしてみたら、なんだか妙に落ちついた気持ちになったのです。なんの思考も要さない、それこそ機械がやってくれでもしたらいのにと思えるような単純作業なのですが、その行いが、かえって私に鎮静効果をもたらしたように思うのです。


この経験と滝行との間に、なんだか私は関連を見いだしたのです。全然違う、間違った関連付けかもしれません。でも、なんだか、大事なことに臨むにあたって、単純な動作をひたすらするとか、身体になんらかの刺激を与えるとかするのが、ことを思わしい方向に運ぶ作用って、あるのじゃないかしらとふと思ったのです。


滝行と、紙の資料のホッチキス綴じなんて、にんじんのはっぱとジャンボジェット機くらい無関係で遠いものに思えるんですけれどね。


与太話にお付き合いくださり、ありがとうございました。