キウイ、甘いのと酸っぱいのと。

「仕事を増やす」というと、私は真っ先に「めんどうごとを増やしてくれたな」というような文脈で用いることを思います。一方で、雇用を創成するというような文脈もあると思います。おもしろいと思ってやれることなら増えたほうがいいし、めんどうごとならば増えないほうが良い。それも、「誰にとって」によって変わるでしょう。他者の世話をすることに喜びを覚える人もいれば、干渉を嫌う人もいます。


丸い卵を四角く切るなんて、いったいなんの意味があるのだろう、なんて風にも思います。でも、やってみなければ、どのような結果や効果が得られるかわかりません。やってみたら、楽しいかもしれませんし、後悔するほどに無駄だと余計に実感するだけかもしれません。それは、やった人にしかわからないでしょう。


卵は丸いものという思い込みをくつがえすことで、生まれる価値があるかもしれません。キウイは酸っぱいものと思われがちだったとして、そこに甘いキウイが登場したら、酸っぱいキウイとは別の価値が生まれます。それでもやっぱり酸っぱいキウイが好きな人は、これまで通りのものを選べば良い。


動けば、動いただけのエネルギーを消費し、そのことによって得られる情報があるでしょう。少し大げさにいえば、気付きだとか発見だとか、学びだとかがあるかもしれません。動かなければ、無を得ます。エネルギーを消耗しないかわりに、情報も学びも発見もありません。いえ、「動かなかった場合にどうなったか」を知ることにはなるかもしれません。でも、厳密には「動かなかった」というアクションのために、エネルギーは費やされています。動的に過ごすよりは少ないかもしれませんが、あんがい、大して変わらないのではなどと想像します。「保つ」というのも、立派なアクションであり、結局、資源の消費なのですね。


「変える」ほうがたのしいと思えば、それはやったほうがいい。どっちにしろ「アクション」なのですから、選べるのなら良いと思うほうを選べばいい。


「やった」事例が増えて、周知されれば、それは共有の財産になりそうです。キウイには、甘いのも酸っぱいのもあるというのが、酸っぱいものしかなかった時代以降の新しい普遍になるように。事例がなければ、これからやれる可能性があるというだけです。事例が多い世界が良いか少ない世界が良いかは、人によるでしょう。どっちが絶対良いというもんでもなさそうです。なら、選べばいい。


お読みいただき、ありがとうございました。