ひとりでは社会ではない

いつか商業的に成功することを夢見ています。夢に見ているだけですし、「いつか」とか言っている時点でいかにも成功する日は来なさそうです。現に、それで三十路なかばまっしぐらなのが私です。


お金をたくさん手に出来なくても、おおまじめに何かをやれてしまうのです。独りよがりで満足してしまっているともみなせます。


他の者にとっての価値を生み出せたら、お金はついてくるのが社会の道理なのじゃないかと思います。お金がついてこないのは、他の者にとっての価値を生んでいないからかもしれません。少なくともその可能性があります。


つまり、「ひとり」では「社会」ではないということです。このへんを、私はよく勘違いします。取り違え続けて、生きてきました。


「ひとり」で完結して生きるなんてことは無理です。それなのに、つい「自分ひとり」さえよければいい、という方向に向かいがちなのです。いえ、「自分が、いいと思う」ことに盲目的になりがちなのです。自分としてはただそれに向かって猛突進しているだけなのですが、その姿勢を、排他的と言い表すこともできそうです。いくら私に、そんなつもりがなかろうと。


一方で、いくら他者がいいと思えるものを生み出していようとも、いくら他者にとっての価値を生み出していようとも、その人が「その人自身にとって本当にいいと思えるもの」と向き合って出した答えでなければ、私はその答えに価値を見いだせません。「媚び」とか「迎合」とかいった言葉が思い浮かびますが、それだけではうまく言い表しきれません。独善的な自分を擁護するのに最適な言葉さえ、私には見つけられずにいるのです。


お金でははかれないことがあって、私はそれに尽くしている? そんな奇麗じゃありません。他者に評価された実績もない者が「お金じゃないよね。」などと言っても、信憑性がないでしょう。私は揺れ、悩んでいます。


「自分」にどこまで他者を含ませられるかというのをよく考えます。一方、そこに決して媚びへつらいだとか、迎合を許してはならないとも思っています。「自分に他者を含ませよう」などと考える時点で、すでに間違っているのかもしれません。その時点ですでに、何か独善的な、よこしまな考えが見えています。動機が、不純。そうじゃないだろ、私。


「お金ではかれること」の可能性を追求し尽くしてもいない者が「お金ではかれないこと」を語る姿なんて、恥ずかしくて見ちゃいられない。自分にそれを語る資格なんてないと思うのですが、「語れない」事実こそが、私が現実を見ていない何よりの証拠だとも思います。語れるくらいに、まずは現実を見ろ。そして、ちゃんと語れ。それで、語ったことに恥じないように、行動しろ、私。


お読みいただき、ありがとうございました。