真っ赤な星

とにかく、この国には場所がないと思っていました。土地というものが何よりも高くて、どこかにそれを持っておくことができるなんて、人生のゴールテープを切った人にのみ許されることのような、そんな幻想を抱いていました。


だから、どこかにどっかりと「場所」を持って、そこにずんどこずんどこ「備え」だとか「蓄え」を放り込んでいって、そこから出しては補充してを繰り返して安泰で生きていかれる、なんてことは並の人間にはできない生き方だと思っていました。ものを保持し続けることなく、両手で持てる程度のもの、あるいは活動する拠点となる狭い範囲のバックヤードが許す程度の小さな量のものを、早いスピードで手渡してはまた受け取ってを繰り返して生きていくのが、私のようなものの生き方になるのかななんて想像もしました。


でも、空き家が増えていく問題が語られることもあるくらいですから、そんな「土地が何よりも高い」みたいな私の抱く印象はおおいに間違っているのかもしれません。土地やいれものは、これからいくらでもある時代になるのかもしれません。すでに、「何よりも高いのは人件費」みたいなことが語られるようになって久しいというのも、同時に私が抱いている「高いもの」に関する印象のひとつです。


でも、人がいないとなれば、ストックせずに新鮮ないいものを、両手とか限られたバックヤードを一時保有の頼みにしつつ早いスピードで回し続けるなんてことも難しくなります。


なんだか焦点が定まりません。そう、なんでも武器になるのが、このごろとかこれからなのかなぁと思います。新鮮さも古くささも。定番の安心感も、先鋭の博打感も。ないといわれつつ、やっぱり余りだしたというような「土地」や「場所」や「容れ物」をどこかに持って戦ったり守ったりするのも。両手もおなかも背中もできるだけ軽く自由にして、そのときそのとき流れ着いたところをずっと経由しながらどこでもない場所へと移ろうのも。


絶対的な強者とでも言いたくなるような存在がないというわけでもないですが、かれらもまた、定番と先鋭のひしめく隙間に光った発想を掬い上げ、そこを出発してあらゆる手をつかってのし上がった時代人であるようにも思います。


振り返ってみればいつだって成熟があって、「あれもこれもやり尽くした」なんてことを、どんな時代のどんな地域の人だって、思って生きてきたのかもしれません。


蓄積は、幻想なのかもしれないと。「その瞬間に生かせる」ものには限りがあるのですから。


お読みいただき、ありがとうございました。