未知にキス

「’89」とかいった表記を、私が10代前半くらいまでの間はよく見ました。「’89」といったら、1989年のことですね。


2000年になると、コンピュータがおかしくなると騒がれたことがありましたね。結果、私のところには実際におかしくなって問題が起きたとかいう話は聞こえてきませんでした。


誰かの仕事がなければ、その安穏、その無事は幻のものだったのか。そのとき、どんな人がどう動いて2000年を迎えたのだったか、私はその多くを知らないでいる。世界滅亡とか、つくり話みたいな予言のほとんどは素通りされました。13歳だった私は、友達と地域の神社で0時を迎えたのだったと記憶しています。コンピュータは家にありましたから、まるで他人事というわけでもなかったでしょうけれど、そう深刻にその問題を受け止めるには私は無知だったのかもしれません。


新宿御苑の近くを散歩していて、急に時の経過から取り残されたような場所に出会ってドキリとしたことがあります。「時の経過から取り残されたような」というのは、更新の手から除けられているかのようだったことを表しています。構造物の錆つきや老朽化について「時の経過」と表すこともできます。


それからだいぶしてから、新宿へ映画を見に行く機会があったのですが、そのときにも会場の近くにあったビルがすごく「更新されないまま残っている」のを認めて、「うわぁ、こんな場所がまだあったか」と思ったのを覚えています。その様子は発展途上国のそれにも似ていると思う一方、衰退途上のそれのようにも思えるのです。


「更新の手」の及んでいないことから生じる現実の姿、そこに懐かしさを見いだして愛着を持つのも可能かもしれません。けれど、それはそのまま朽ちるのを静かに受け入れて待つ姿勢であるとも同時に思います。古くなったものを利用するのと、古くなっていくのを野放しにするのとは違います。


廃墟や遺構のようなものに惹かれる気持ちも私にはわかります。なぜ、そのまま放置されたのか? 多くの場合は「更新の手」が入ってしまって、平坦にのされてしまいます。どこにでもあるありふれた景色に変えられてしまいがちです。それから逃れ、ある意味「廃墟」や「遺構」として生き長らえたその姿は異彩を放ちます。そこに物語を感じる。放置された理由を描いた物語。放置されているそのあいだに、人々がどう過ごし、どう動いていたか。その時間を、ただただ朽ちながら錆び付きながら待った構造物のお話です。


古いものをなくせということでもないし、欲張ってなんでも新しくするなということでもありません。いえ、「新しい」を私は取り違えているのかもしれません。人の手が改めて入ったとしても、旧知のやりかたで設けれた、すでに見たことのあるような光景が新しいのではないと思うのです。私の「新しい」に対する思い違いを正すと、それは今の私が理解する「未知」に近いのかなと思います。私は、「未知」を見たい。傍観者でもなく、そこに加われる者になれるように歩いていきたい。


お読みいただき、ありがとうございました。