じゅうちょう【重聴】

読むのが、苦手です。むっちゃ遅いんです。本を読むの好きですし、ネット記事やSNS見るのも好きなのですが、もうとにっかく読むのが遅いので、どんどん読みたいもの、目を通したいものが溜まります。たまってしまった本が横になって積まれていくさまを表して「積ん読」ってはじめに言ったのがどなたか存じ上げませんが、「罪本」じゃなくて「積み本」が家のあちこちにできてしまいます。


読むのが遅いのは、心の中で音読してしまうからです。これを、なかなかやめられないのです。心の中でも「黙って」読もうとするのですが、そうすると、内容がまったく頭に入ってこなくなりがちです。ただ、「文字を見ているだけ」の状態。で、これではいけない、意味を! 意味を拾わなくては! って「読もう」とすると、その瞬間に「音読」に切り替わってしまいます。


そんな私でも、心の中で黙読できるときもあります。それは、切実に時間に追われているときです。いえ、いつもそんな緊迫しているわけではないのですが、「あと何分だけ読める」というのがわかっていて、「出来る限りこのテキストは、いまこの瞬間に入れておいたほうが良い」という確かな理由があるときのみ、私は心の中での黙読ができるのです。例えば、このあと講演会とかトークイベントを聞きに会場に直行する予定があって、その登壇者と関連の深そうな著書や記事が目の前にあるとき、「この情報は入れておいたほうが、きっと講演を奥深く楽しめるはず」などと思えるときです。そんな理由と、時間の限りが明確に見えているときのみ、私は速読能力を発揮するです、ちょっとだけね。


速読能力を発揮するといっても、実際は「心の中での黙読」がちゃんとできているのとは違います。文頭や段落のはじまりの一部のみはついつい、心の中での音読になってしまう。その先について、ぱっと「視認」できるというだけです。「音読」と「黙読」の入り交じった、不完全な「速読」なのです。


私の人生の比重の多くを握っているのが、音楽に関わることなので、私はついつい「音」を重視してしまうのかもしれません。「音を重視」って、音を視るかのようですね。でも「重聴」っていいませんね。私が言おうかな、「重聴」。う〜ん、人に言っても伝わらないだろうし、だいいち「じゅうちょう」って「音」がいまいち。やっぱり、私は「音」を重視しているようです。